草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

LGBT法に反対する産経の社説を断固支持する

2023年05月12日 | 祖国日本を救う運動
 今日付けの産経新聞の社説は「女性の権利と安全が損なわれるなどの懸念が払拭されていない」とLGBT法に反対しており、良識ある日本国民の声を代弁している。
 この法律については超党派の議員連盟ができており、正式には「性的指向及び性自認に多様性に関する国民の理解の増進に関する法案」である。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルのほかに、肉体的性と心が一致しないトランスジェンダーの頭文字を取った略称がLGBTである。
 すでに日本では平成16年の特例法によって、性同一性障害に関しては、複数の医師の判断で戸籍上の性別を変更することは認められている。
 この点を指摘しつつ、自民党案も含めて性同一性障害という言葉は使わず、「性自認」を「性同一性」にするか、「差別を許さない」を「不当な差別があってはならない」に変えるかどうかで、最終的な決着を目指そうとしていることに関しては、「言葉遊びの修正には意味がない」と断じている。
 もっとも危惧しているのは、自己申告によって性を決めるという「性自認」が容認されることである。肉体的には男性であるのに、心は女性だと言えば、女子トイレや女湯に入ることを拒否できなくなる。すでにカナダなどでは、トランスジェンダーを自認する男が、女性施設で性的暴行を加えた事件が発生しており、犯罪の温床となることを恐れているのだ。
 いくら同盟国であるアメリカの駐日大使が頭ごなしに要求してきても、ダメなものはダメなのである。それを真っ向から反対した産経新聞の勇気には、一読者として敬意を表したい。ここで負けではならないのである。
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日本には欧米流の差別はなくLGBT法は必要ない

2023年05月12日 | 祖国日本を救う運動
 LGBT法の成立を急ぐ人たちは、日本と欧米との違いに目を向けたくないようだ。フーコーがロサンゼルスのゲイ新聞「唱道者」(1984年8月7月号)のインタビューに応じ、ホモセクシュアルについて語っている。
 フーコーは「古代以来、何世紀ものあいだ、友情は社会関係のきわめて重要な様式なのであって、その様式につつまれながら男性はある種の自由を、ある種の選択の可能性をもっていたし、その様式はしかも同時に強烈な情愛の関係でもありました。この種の友情が、少なくとも男性社会で消滅するのが見られるのは16世紀と17世紀のことだと、ぼくは思う」との見方を示した。
 つまり、それまでは男同士の性などは問題にならず、警察は司法制度と衝突するようになったのは、18世紀からだというのだ。フーコーは「友情」の消滅とからめて論じたのである。「友情」が認められている社会では、男同士が愛し合っていようがいまいが重要なことではなかったからである。
 しかし、文化的に容認された関係としての「友情」が認められなければ、「男同士がいっしょにいて何をやっているのか」という問いが出され、同性愛が社会的で政治的で医学的な問題となったというのだ。
 それはあくまでも欧米でのことではないだろうか。日本においては男同士の付き合いが変な目でみられることはほとんどない。「男の友情」が歌謡曲の有力なテーマになり、外部から見れば同性愛と誤解されるほどに、親密な男の「友情」が未だに維持されているのではないか。
 また、フーコーは、アブノーマルな性的な行為というのを、肉体的を源泉とした創造過程とみていえるが、日本文化における性愛の技術は、欧米よりも格段に進んでいるのではないだろうか。多神教の日本人と、一神教の欧米とでは、性に対する考え方が異なるのである。
 エマニュエル米国大使のように、あたかも日本人が野蛮であるかのように蔑み、一方的に自分たちの価値観を押し付けるのは、内政干渉以外の何物でもない。そんな人間が押し付けるような法律を拙速に通せば、ありもしない差別とかいうことを我が国に持ち込み、事を荒立てるだけなのである。
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