狂気が露出しているのが現代ではないでしょうか。常識が揺らいでいるのは、そのせいではないでしょうか。そんなことを思ったのは、フーコーの「狂気と社会」(神谷恵美子訳)を読んだからです。
フーコーは「十九世紀までは文学は社会の道徳を支えるために、または人びとに楽しみをあたえるために、強く制度化されてきました。ところが現代では、文学のパロール(言葉)はそうしたものからまったく離れて、完全にアナーキーなものになってきました」と書いているからです。
文学と狂気には類似性があり、親近性があるという物の見方は、間違ってはいません。文学的言語は日常的言語のルールには拘束されず、真実を語らなければならないというような規則にも、縛られることはないからです。
フーコーを理解することは難しくても、彼の語りたかったことは、仕事をせず、愛することもできない人たちを、排除するのではなく、彼らとの共存であったはずです。現代における文学の定義も、それを支える理論として示されたのです。その考え方には僕も賛同します。
しかし、今現実に起きていることは、そうした人たちの意見に全面的に従うことを強いるような風潮ではないでしょうか。それはまさしく社会の解体にほかなりません。
道化のように語る人の存在は、一定程度の役割があります。そこに文学的価値を見出すのも可能でしょう。ただ、それに振り回されてしまっては、社会の根本が崩れてしまいます。当たり前のことを、当たり前のように語ることの最後の拠り所は、何としても守り抜くべきなのです。
意味不明なことを言ったり、書いたりする自称知識人に振り回されてはなりません。参考程度にすればよいのです。頭からその言説を信じてはなりません。道化は道化でしかないからです。