草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

盛岡にて啄木を想う 5首

2012年06月09日 | 短歌

食らうべき思想もなくて頬ずりす啄木の町闇深けれど

小糠雨めげずに歩く大通り見知らぬ町に情けありしか

かの女(ひと)がむんずと見せし傷跡に啄木なれば歌の一つも

盛岡の志家町という一角に知り合いがおり足をとどめん

啄木の一途な思い燃えつきぬかなしき性よ紅灯なれば

 
政治 ブログランキングへ  

               ←会津っぽに応援のクリックをお願いします

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反日共反モスクワで一致した大物右翼田中清玄と60年ブンド!

2012年06月09日 | 思想家

 日本の新左翼運動が潰えてもう何年が経っただろう。今でも一部は残っているが、もはやかつてのような勢いはない。会津人の私としては、会津藩の家老の一族であった田中清玄が一枚噛んだ60年安保騒動のことを、もっと知りたいと思う。幼い私の耳にも「アンポハンタイ」の掛け声が始終聞こえてきたために、今でもその余韻が残っている。田中は武装共産党時代には中央委員長であり、全学連主流派であったブンドを側面から支えたのだった。当時の田中は右翼の大立者になっていたが、血気にはやる若者たちを、見殺しにはしなかった。1960年1月16日、岸信介首相の訪米を阻止しようとした羽田事件で、ブンドは幹部の大半が逮捕された。しかし、保釈金を出してくれる人がいなかったので、好意的であった田中に頼むと、快く用立ててくれたのである。そこで手を組めたのは、反日共反モスクワということでは、お互い一致していたからだろう。日米安保条約が自然承認されたことで、ブンドも解体し、そこに加わっていた者たちも、大きな喪失感にさいなまれた。そこでも田中は助け船を出したのだった。すでに転向していた田中がそこまでしたのは、日本という国家が、いつになっても主権を回復できないので、若者のエネルギー、それもナショナリズムに期待したのだと思う。本来であれば保守民族派が取り組むべきテーマを、新左翼の彼らが担ったのである。6月の梅雨の時期を迎えると、いつもそのことを考えてしまう。

 
政治 ブログランキングへ

              ←ナショナリズムの爆発が60年安保騒動だと思う方はクリックを

 にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする