薄汚れたサヨクと違って、以前は乗り越えるべき左翼がたくさんいた。その代表格が花田清輝であった。戦争中は中野正剛の東方会に属していた。戦後は共産党に入ったかと思うと、すぐに除名されるなど、破天荒な人生であった。しかし、その文章の切れ味は相当なもので、そんじょそこらの物書きなどは、足元にも及ばなかった。その花田が「パチンコ・ルネッサンス」なる一文を残している。まず冒頭の文章からして、生理的にパチンコ嫌いであることを表明している。「昼となく夜となく、街中いたるところで、ガチャン、ガチャン、ガラ・ガラとやられたのでは、せっかくの詩情も、霧散霧消してしまう」。そして、パチンコが誕生したのは、昭和始めの名古屋であり、それに興じていたのは子供であったことに言及している。昭和32年頃に大人の遊びになってきたので、左翼の理論家として黙っておれず、あえて警鐘を乱打したのだ。花田が許せなかったのは、敗戦で意気消沈した機械メーカーが、パチンコをつくったことであり、わずかにうさばらしを試みている、無数の失業者の存在を連想させるからであった。よほど腹に据えかねたのか、自動玉入れ器を開発した学生に向かって「どうか諸君の創意を、もっとマシなもののために発揮してくれたまえ」と苦言を呈している。パチンコ経営の在日に媚を売ってばかりいる現在のサヨクとは、天と地ほどの開きがある。敵とすべき左翼にも、見上げた人物がいたのである。
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