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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の真実と恵みに感謝して / 岩井基雄

2016年10月07日 | Weblog
2016/10/7放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 今日は旧約聖書の詩篇100篇の後半から、「主の真実と恵みに感謝して」と題して、神様の愛と真実に生かされる幸いな人生を共に考えてみましょう。

 この詩篇100篇は「感謝の賛歌」という表題がつけられています。
「 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
  喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
  知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
  感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
  主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

        旧約聖書 詩篇100篇

 この100篇の後半には、創造主なる神様の真実さと恵みへの感謝が歌われています。真実ではない私たちをも愛し、慈しみそして真実を表してくださる神様の恵みに気が付くことは実は簡単ではありません。苦難や悲しみや涙を通る中で、私たちは不思議な神様の助けや守りを経験します。私たちの心がへりくだっていないと、神様の真実に気がつかないことが多いのです。「心の貧しい者は幸いです」とキリストは語られました。自分の心の貧しさに気が付いていないならば、本物の幸いに出会うことはできないのです。この詩篇の作者は、力の限り創造主である神様を賛美し感謝を捧げていますが、その理由は自分の思い通りに事が運んだからではありませんでした。私たちの存在そのものをも愛し、慈しみと恵みを豊かに注いでくださっている神様への感謝と賛美なのです。実はここにこそ、この詩篇のすごさがあります。自分の状況の如何にかかわらず主の真実と愛と恵みを心に留め、賛美と感謝をささげて行く時にこそ、主権者であり創造主である神様の偉大さになお深く気が付いて、そして主に向かって喜びの声を上げることができるのです。すなわちまず最初に主に感謝と賛美をささげるとき、私たちの内側の喜びが満ち溢れ、神様にある輝きの人生を歩み出して行くことができるのです。あなたもまず創造主なる神様を賛美しませんか? 神様の愛の中であなたの人生は造り変えられるのです。
  (PBA制作「世の光」2016.10.7放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神は渡さなかった / 福井 誠

2016年10月06日 | Weblog
2016/10/6放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神は渡さなかった」です。それでは第一サムエル記23章14節から読んでみましょう。

  「 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。

 ペリシテ人がイスラエルに攻め込んできて略奪を謀りました。ちょうど収穫期の終わりの季節、たくさんの収穫物を狙った犯行でした。その知らせはダビデのもとに寄せられました。一方、イスラエルの王サウルは、そんなペリシテ人の蛮行を抑えるよりも自分の地位を守るためにダビデを追跡し追い詰めることに汲々としていました。

 こんなストーリーを読みますと、人間社会の生々しい現実を思わされますね。組織の長として組織を引っ張っていくべき時に、ただ保身を計って自分の立場を揺るがす者に目を光らせ締め出そうとする。それは歴史の過去の歴史のお話しではありません。現代の様々な組織ですらそんな事を見聞きするのですし、そういう組織の中に置かれてしまう不幸というものがありますね。

 しかし聖書はまさに私たちの人生の指針です。ダビデが経験したように、正しいことをなさる神が苦難にある神のしもべを守り導いてくださるのです。

 この時期、ダビデは詩篇の31篇を書いていますが、そこにはダビデの心情がよく表わされています。ダビデは侵略するペリシテ人を打ち負かし、「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。」(詩篇 31章21節)と歌いました。しかし同時に「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。」(詩篇 31章12節)と歌っています。勝利を祝いながらもサウルに追跡され、陥落寸前の自分の心の悲しみがあることを告白しています。ただ彼は絶望している訳ではありません。「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」(詩篇 31章15節)とはっきり神に望みを抱いていますね。人生はうまくいかないものですし、苦しいことだらけですが、神の助けが有れば必ずそこに道は開けると考えたいものですね。すべてを動かす鍵は神にあるからです。

(PBA制作「世の光」2016.10.6放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
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が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

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■非難は災いのもと / 板倉邦雄

2016年10月05日 | Weblog
2016/10/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「非難は災いのもと」という題でお話しします。

 非難や悪口はインターネットの現代、地球的規模になってしまいました。しかしいつの時代でも不当な非難や悪口は災いの元になることは変わることはありません。

 さて、モーセはエチオピアの女性と結婚していました。そのことで姉のミリアムは今までの不満がモーセに向かって爆発してしまいました。モーセの兄であるアロンを巻き込んでモーセを非難したのです。
 「主なる神様はただ弟モーセによって語るのはおかしいじゃないのよ。私やアロンによって語られても良いじゃない。」 
  本音は弟のモーセだけに主なる神様が語られることへの不満と嫉妬でした。弟モーセに対する妬みが姉のミリアムを非難と悪口に走らせたのです。

 妬みは魂の殺人者であると言われます。妬みのために自分自身を殺してしまった男の話を聞いたことがあります。名声を馳せた選手を記念して像が建てられました。競争相手だった選手はその事を激しく妬みましたので、毎夜、夜中に出かけて行ってはその像の土台を削り取って倒そうとしました。最後の部分にノミを当てました。像は倒れましたが、その男の上に倒れかかり、男は死んでしまったのです。

 さて、主なる神様はミリアムのモーセに対する非難をお聞きになりました。突然、モーセとアロン、姉のミリアムを神の幕屋に呼び出したのです。そしてこう言いました。
 「わたしのしもべモーセはわたしの家・イスラエルの民に対し忠実な人である。夢や幻でもまた謎でも無く、直接語りかける。モーセはわたしを見ている。なぜあなたがた二人はわたしのしもべモーセを非難するのか。」

 主なる神様が神の幕屋を離れ去った時、首謀者、姉のミリアムは重い皮膚病になり、その身体は雪のように白くなってしまいました。

 聖書のことばです。
 「妬みは骨を腐らせる。」(参照 文語訳 箴言14:30「娼嫉は骨の腐なり」)
 「さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
         第一ペテロの3章の10節から11節 (口語訳聖書)

  (PBA制作「世の光」2016.10.5放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■起きて、床を取り上げて歩け 1 / 大嶋重徳

2016年10月04日 | Weblog
2016/10/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書の中にエルサレムの羊の門と呼ばれる場所にベテスダという池にまつわる物語が出てきます。ベテスダという名前は「慰めの家」という意味があります。この池には一つの伝説があったのです。主の使いがその池に時々降りてきて水浴びをします。見えない天使が水浴びをすると、その水がさっと舞い上がって池の水が動くのです。そしてその水が動いた後に池に一番最初に入った人はどんな病気にかかった者でもすぐに癒される、というものでした。この池はエルサレムの神殿の北のほうにあって、池の周りを五つの回廊がぐるりと取り囲んでいました。この五つの回廊には噂を聞いたユダヤ中の多くの病人たちが水が動くのを今か今かと待っていたのです。そこは誰も治療する人もなく、傷あとは腐り、トイレも垂れ流しにされていた人たちの溜り場でした。ですから汚いし臭いし誰も近づかない場所だったです。

 この日、そのベテスダの池にイエス様が来られました(ヨハネ福音書 5章1節~6節)。この日は祭りの日でしたで。ベテスダの池の隣の神殿はまさに祭りの中心でした。にぎやかな音が聞こえてきたでしょう。しかし隣にあるこの池にいる彼らを誰も関心を持っている人は居なかったのです。

 しかしその祭りの日にイエス様は、誰も近寄らないその場所に来ました。そしてそこで、38年の間ずっと治らずに伏せっている人をじっと見つめた、とあります。この時のイエス様の眼差しはどんな眼差しだったでしょうか。

 私はイエス様のことを好きだなと思うのは、イエス様は美しいもの魅力的なものを見つめられたという記事が聖書には無いことです。苦しみや痛みや悲しみを見つめられた記事ばかりが出てきます。

 今日このラジオをベッドの中で聞いておられるという方もおられるのではないかと思います。しばらく立ち上がれずに、たくさんの人の輪の中にいることから遠ざかっている方がおられるかと思います。私もしばらく入院していた時のことを思い出すと、自分だけが取り残されたような気がして随分と気持ちが焦ったことを思い出します。しかしそんな自分の布団のそばに、イエス様が寄り添っていてくださり、盛り上がっていて楽しげな所に足を運ばれるキリストではなくあなたの所に来れるキリスト、そんなイエス様の眼差しの中で安心して朝を迎えていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.10.4放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■暗闇から光へ / 関根弘興

2016年10月03日 | Weblog
2016/10/3放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今日も聖書のことばを最初に紹介しましょう。エペソ人への手紙5章8節
  「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

 この手紙を書いたパウロは何とエペソの教会の人たちに「あなたがたは、以前は暗闇の中にいました」と書いているのではなくて、「あなたがたは以前は暗闇だった」と書いてるんですねえ。つまり、あなたがたの存在そのものが暗闇の性質そのものだったと言っている訳です。もちろん、と言ってもこれは性格が暗かったというような意味ではありません。お互いの性格とは関係なく、みんな以前は暗闇だったと言うんですねえ。一体どういうことなのでしょう。

 パウロはこの手紙の2章の所で、こんなことも書いています。
 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
 このように書かれています。つまり私たちは、以前は罪の中に死んでいた状態、そういう風に言ったんですねえ。罪というものは神様との関係がずれた状態を表すことばです。命の源である神様との関係がずれてしまって、神様との親しい交わりが途絶えてしまっているという訳ですねえ。それはちょうど美しく輝くことのできる電気であっても、もし断線状態なら決して光り輝くことができませんね。「あなたがたは以前は暗闇だった」ということは、本来なら輝くことができるのに断線している状態にあなたがたはいたのですよ、とパウロは言っているんです。

 しかしパウロは、暗闇だった私たちは今、主にあって光となりました、と記していますよね。イエス・キリストは何のために来られたのでしょう。それは私たちのこの断線状態を回復し、神様からの命を受けて光を放つことのできる者へとあなたを変えてくださるために来てくださったのです。

 イエス・キリストはこう言われました。ヨハネの8章12節
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 イエス・キリストは私たちの暗闇を照らすまことの光として来てくださったんですね。

(PBA制作「世の光」2016.10.3放送でのお話しより)

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■キリストの十字架の意味 / 羽鳥頼和

2016年10月01日 | Weblog
2016/10/1放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙6章から洗礼式についてお話ししたいと思います。

 キリスト教会ではイエス・キリストを信じると洗礼式を行います。洗礼を受けることによってキリスト教の信者となり、キリスト教会の一員となるのです。この洗礼式の意味についてパウロが教えています。洗礼式のことを聖書ではバプテスマと言っています。パウロはまずバプテスマを受けた私たちはキリストの死に与るバプテスマを受けたのだと教えます。バプテスマを受けることによって、キリストと共に死んだのです。そしてキリストが十字架で死んだ後に復活されたように新しい命をいただいて新しい人生を生きるのです。こうしてバプテスマを受けた者は罪を赦されて新しいきよい歩みを始めるのです。

 そしてパウロは、バプテスマとイエス・キリストの十字架と復活について教えています。バプテスマを受ける者はイエス・キリストの十字架によって自分が救われたことを信じます。パウロは、救われた者がどのように生きるのかを、キリストの十字架と復活から教えるのです。パウロは教えています。
  「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためです。私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなるのです。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがた・・・を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた・・・を義の器として神にささげなさい。」(ローマ 6章6節、8節、12節、13節参照)


 義の器とは良い行いをすることです。罪を赦された者はキリストと共に生きる者、神に従って良い行いをする者となるのです。バプテスマはこれから自分が神に従い、キリストと共に生きる決心をする時なのです。あなたもキリストと共に生きる決心をしてください。

 明日は日曜日です。キリストと共に生きる者となるために、近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.10.1放送でのお話より )
 
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