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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■神のわざが現れるため 11 / 大嶋重徳

2014年11月18日 | Weblog
2014/11/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には生まれつき目の見えない青年がイエス様と出会い、目が見えるようになった、という出来事が記されています。しかし、イエス様によって目が見えるようにされたという彼を、イエス様を嫌う律法学者たちは町から彼を追い出してしまいました。更にショックなことは、自分の家族も自分のことを見捨ててしまったのです。余りにも残酷な状況が彼の人生に襲い掛かりました。

 しかしそんな彼をイエス様は見つけ出して言われます。「あなたは人の子を信じますか?」 「人の子」とは旧約聖書ダニエル書でも語られる「苦難のしもべ」、人の苦しみを通りその苦しみの意味を誰よりも理解される神、という意味です。

 すると彼は言います。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」(ヨハネ 9章36節) 「主よ、信じることができますように。」 このことばは彼の祈りです。イエス様は、「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」(ヨハネ 9章37節)  彼は言います。「『主よ。私は信じます。』 そして彼はイエスを拝した。」(ヨハネ 9章38節) とあります。

 この「拝した」ということばは「膝まづいた」という意味です。それは自分の人生の解釈を神の前に置いたということです。神様を信じて生きるとは自分の人生の解釈を神様の眼差しから見つめるということを選び取ることです。彼は彼の人生に起こった親から見捨てられると言うこともこの時彼の人生で神様の前に置いたのでしょう。私たちは信仰を持つ時、神様の深い計画で私たちの家族を見ることができるのです。私たちの親の人生を神の眼差しから見つめるのです。親の犯しやすい罪を神の赦しの眼差しから見ていくのです。また私たちの子どもの人生も見下さずに生きるようになります。自分の人生で他の人によって引き起こされた苦しみも自分の怒りの解釈からだけではなく神様の目から見る目線が育てられていきます。神様がいよいよあなたに見せようと願っておられるものがあります。その事柄を神の前に膝まづいて信仰の目を開いて見つめたいと思うのです。信仰を持つとは、神の眼差しの元に自分の人生を置いていくと言うことに他なりません

  ( PBA制作「世の光」2014.11.18放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



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■罪となんですか? / 関根弘興

2014年11月17日 | Weblog
2014/11/17放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 番組にこんな質問が寄せられてきました。
 「聖書が教える罪というのはどういうものですか?」という内容でした。私たちは罪ということは悪いこと、犯罪というふうに考えますね。もちろんそれは罪なのですが、聖書が教えている罪とはですね、「的外れ」という意味があるんです。つまり罪とは的に正しく当てることができないずれた状態のことを指しているんですねえ。

 たとえば私たちの身体にずれが生じたとするとどうなるでしょう。血圧が正常値からずれたとか血糖値がずれたとか、そのずれによって病気になってしまいます。それと同じように神様との正しい関係がずれてしまう時、人は神様から愛されていることや本来の人としての目的や道を見失って、その結果として様々な問題が生じて来るんですね。

 そして罪の現実は三つのことによって知ることができると思います。一つは人間の歴史を見ることによって罪があるということが分ります。人の歴史は人がいかに罪ある存在かということを教えてくれますねえ。殺人があり、戦い、騒乱、破壊など、絶えることがありません。残念ながらそれは今でも同じです。

 二番目は、人の心を見ることによって分ります。私たちの心を見たら罪が分りますね。ねたみがある、憎しみ・欲望・貪り・悪意・うらみ・高慢、すべきでないことをしてしまったり、すべきだと分かってるのにできない弱さがありますねえ。心の中を正直に見るならば、私には罪なんて一つもありませんと言える人は誰もいません。

 そして三番目に、聖書のことばによって私たちに罪があるということが分るんです。聖書は、人はみな生まれながらに罪ある存在だ、とはっきりと教えています。そしてその罪の大元は、天地を創造された神様に背を向けて離れてしまっていることだと教えているんです。ですから聖書を知ることによって神様との関係がずれてしまっていることが罪の状態なんだということが分かって来るんです。

 もし体のずれがあって体調を壊したら、そのずれを直すために病院に行ったりお薬を飲んだりしますね。聖書が言っている罪は神様との関係のずれな訳ですから、そのままほうっておいていいはずがありません。イエス・キリストはこうおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5章31節、32節  参照マタイ 9章12節、13節、 参照マルコ2章17節)

 イエス・キリストこそ私たちのずれた状態を正し本当の罪の解決を与えるために来てくださったのです。

 (PBA制作「世の光」2014.11.17放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神の栄光をあらわす主のしもべ / 羽鳥頼和

2014年11月15日 | Weblog
2014/11/15放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。旧約聖書のイザヤ書には神のしもべについての預言が幾つかあります。それらの多くは救い主キリストのことを預言しています。キリストが実際に活躍する700年ほど前にこのイザヤ書はその事を預言していたのです。

 先週はイザヤ書の42章からお話しましたが、今日はイザヤ書の49章からお話ししたいと思います。先週と同じようにイザヤ書の預言のことばと実際のキリストの活躍を語っている新約聖書の福音書とを比較してみたいと思います。キリストについてどんなことが分るでしょう。

 イザヤ書の49章では神のしもべについて二つのことが預言されています。まず一つ目のことは神様のしもべは神の栄光を現すということです。神の栄光を現すとは神を見せるということです。

 それでは実際にキリストはどのように神を見せたでしょう。最後の晩餐の時、弟子のピリポがキリストに言いました。「私に神を見せてください。」 その時キリストは言われました。「ピリポ。あなたはわたしが働いているのを見たでしょう。思い出してご覧なさい。わたしのことばを聞き、わたしの奇蹟を見た時、あなたは父なる神のみことばを聞き、父なる神のみわざを見たのです。」(ヨハネ 14章9節参照) キリストはイザヤ書の預言の通り、自分の働きを通して神の栄光を現したのです。

 さてもう一つ、イザヤ書49章がキリストについて預言していることを見てみましょう。それはキリストは諸国の民の光として地の果てにまで神の救いをもたらす者となる、と言う預言です。新約聖書においてもキリストが世界の光として神の救いをもたらすことが語られています。キリストご自身もこう語っています。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ 8章12節)

 日本は極東と言われます。極東とは世界の東の果ての地ということです。まさに地の果てにいる私たちにも神の救いがもたらされています。その神の救いはあなたにいのちの光を与えます。世の光であるキリストを信じましょう。明日は日曜日です。私たちに救いを与えてくださる神を礼拝するためにお近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.11.15放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■代価を払って / 岩井基雄

2014年11月14日 | Weblog
2014/11/14放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日は「代価を払って」というテーマでお話をします。

 アブラハムが妻のサラをなくした時、信仰の父と呼ばれた彼にとってもそれは大きな痛みでした。しかもカナンの地を彼と子孫に与えるという神様の約束にもかかわらず、アブラハムはサラを葬むる土地さえもまだ所有していなかったのです。

 アブラハムは神から、「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。・・・そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。」(創世記15章13節、14節、16節)と語られていたので、それまでは土地の所有については心配しなかったのかもしませんね。

 しかし妻の埋葬のためにと、ふさわしい墓地を求めたのです。それは自分の子孫がこの地に戻ってきた時のためにも、と地所を求めたのかもしれません。

 ヘテ人エフロンはアブラハムに土地の提供を申し出ましたが、アブラハムはそれに甘えることをせず、通常よりも非常に高額の代金を支払って、その土地を手に入れました。神様の約束の成就を確信していたアブラハムは、自らも犠牲を払って、マクペラの墓を手に入れたのです。それは人々への証しとなり、サラだけではなくアブラハムやイサクや、またその後の子孫もその墓に葬られることとなりました。神様に信頼する者は社会的な責任をも誠実に果たします。アブラハムは喜んで必要以上の犠牲を払い、神の約束の成就への一歩を踏み出したのです。

 神様は私たちのために独り子イエス・キリストを惜しみなく与え、救いの道を開いてくださいました。私たちは犠牲を払ったり神様に心から捧げたりすることを惜しんではいないでしょうか。

 聖書のことば

 「その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。」  創世記 23章18-20節

(PBA制作「世の光」2014.11.14放送でのお話しより)

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■苦しみもない / 福井 誠

2014年11月13日 | Weblog
2014/11/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「苦しみもない」です。それではヨハネの黙示録21章4節から読んでみましょう。

 「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

 21章からは地上の裁きが終わり、新しい天と新しい地が現れる場面ですねえ。歴史の幕は閉じられました。しかしそれは新しい始まりです。聖書は終末のイメージで恐怖を煽ろうとしている訳ではなく、むしろ新しい始まりがあることを示し、それがいかに素晴らしいものであるかを語ります。

 例えばその新しい世界には、もはや悲しみ叫び苦しみがありません。

 私たちは今の世にあっては至る所で悲しんだり苦しんだりうめいたりして生きているものですね。なぜか。それは、自分中心に物事を考え行動する罪の問題があるからです。互いの罪が互いに足を引っ張り合って苦しめ合っているのですね。

 しかし、新しい天の御国にはそんな自己中心な人は誰もいません。古いものはみな過ぎ去ったのです。だから悲しみ苦しみもないのです。けれども、天の御国がそのような所だったら、一体誰が入れるのでしょうか。少なくとも自分の胸に手を置いて考えてみると、自分は他人の足を引っ張るだけで罪の全くない新しい天の御国なんてとても入れないと思う人は多いでしょう。
 けれども大丈夫です。あなたにも天の御国は開かれています。本来、罪に満ちた私たちにふさわしいのは、火と硫黄の燃える池です。けれどもそんな私たちの行き先を変えてくださった方がいます。イエス・キリストです。イエス・キリストが十字架で苦しんでくださった故に、私たちの罪は赦されて、その罰も帳消しにされました。またイエスが遣わしてくださった聖霊の力によって私たちは新しい天の御国にふさわしく変えられるのです。

 恵み豊かな神は、私たちを愛し、私たちにこの救いを提供しようとされています。皆がイエスにあって変えられて、天の御国に来ることを望んでおられるのです。

 ぜひこの主の大いなる愛を素直に信じて受け入れ、新しい天と地を目指して歩ませていただきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.11.13放送でのお話より )

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■燃えてしまわない柴 / 板倉邦雄

2014年11月12日 | Weblog
2014/11/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「燃えてしまわない柴」という題でお話ししましょう。

 アメリカのカリフォルニアには100メートルを超える赤い木、レッドトリーがあります。太さは20メートルにもなると言います。表の皮は30センチ。ですから山火事になっても燃えるのは表面の皮だけ。幹は残りますので、そこから再び枝出し成長すると言うのです。

 さてモーセは妻チッポラの父、舅、ミデヤンの祭司の羊の群れを飼っていました。羊の群れを導いてシナイ半島の外れにある神の山、別名シナイ山にやってきました。すると突然、柴の燃える炎の中に神様の使いが現れたのです。よーく見ると柴の木は燃えているのですが、燃え尽きてしまわないのです。いつまでも燃え続けているのです。一体どういうことだろう。なぜ柴の木は燃えてしまわないのだ?とモーセは不思議に思いながら側へ近寄りました。その時です。燃える柴の中から神様は呼びかけました。「モーセ。モーセ。」 「はい。ここにいます。」 神は言われました。「これ以上、近寄るな。靴を脱げ。お前の立っている所は聖なる地だ。私はお前の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 砂漠の奥地、シナイ山のふもと。羊たちを導いてゆく荒野。そこが神の聖地でした。モーセが妻と共に40年に渡り羊たちの群れを世話をし保護し導いた地、そこにこそ神は臨在し、神が導かれ、神が働いておられた聖なる地だったのです。

 モーセは今度は神の民たち、神の群れをこの聖なる地で40年に渡って導くことになるのです。ですからモーセは主なる神、アブラハム、イサクそしてヤコブの信じた神様が私の羊飼いであったことを確認する必要があったのではないでしょうか。燃えるような炎の試練を受けているが燃え尽きることのない命を持った神の羊たち、あのレッドトリーのような人々をエジプトから導くようにと言う呼び出しだったのです。

 キリストのことばです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。」 ヨハネの福音書15章16節

 (PBA制作「世の光」2014.11.12放送でのお話より )

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神のわざが現れるため 10  / 大嶋重徳

2014年11月11日 | Weblog
2014/11/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には、生まれつき目の見えない青年がイエス様と出会い、目が見えるようになったという出来事が記されています。しかしイエス様を嫌う律法学者たちから、イエス・キリストのわざによって治ったと告白する彼の存在も疎まれていきます。34節 「彼は町の外に追い出された。」
 彼は、なぜこんな事になったんだろうと考えたと思います。すると35節 「イエスは、・・・、彼を見つけ出して言われた。

 イエスは追い出された彼をイエス・キリストは見つけ出すんだと記されています。イエス様は彼を一人にはしないのです。

 例えば、お腹が減ってペコペコでどうしようもないという状態にいる二人がいます。二人ともお腹が減って今にも気絶しそうです。しかし、もう少し歩けば一人には暖かい夕食を作って待ってくれる家があります。しかしもう一人には家がありません。待ってくれる人が居ないのです。この場合、この時点では同じようにどちらもふらふらにお腹がすいていると言うことは全く変わらないわけです。ああぁお腹が減って辛い、と言うことにおいては同じなのです。しかし一方には暖かい家があり、その家に行けば優しい家族が待っていて、お腹をいっぱいに満たすことができる。空腹の中にもなお今日は何が食べられるんだろうか、むしろ限界までお腹をすかせてしまってから食べたい、とそんな思いすら生まれてきます。空腹であっても空腹の中にあり続ける喜びがあるのです。しかしもう一人には何もありません。お腹が減った自分は独りぼっちだ。この場合、空腹はそのまま苦痛であり、この空腹は孤独です。同じ空腹でも起こっている現実は全く違うのです。

 私たちの人生にもなぜこんなことが起こるんだろうかと考え込んでしまう出来事が起こります。しかしその先で必ずイエス様は見つけ出してくれるんです。迷っている自分を待っていてくれる。温かい食事をもってよく帰って来たなと迎えてくださいます。その時、人生は孤独ではなくなります。今あなたが迷っている迷いの先にイエス様が必ずあなたを見つけ出してくださいます。迷いから抜け出すことが安心だと私たちは思いがちです。しかしこのイエスさんのくださる安心の中で迷う、この迷いの中を歩んでいただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.11.11放送でのお話しより )

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■いつまでも主の家に / 関根弘興

2014年11月10日 | Weblog
2014/11/10放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 何回かに分けて世界中の多くの人に愛されている旧約聖書の詩篇23篇からお話をさせていただいています。何度も言いますよにこの詩篇の冒頭のことばは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」ということばです。どうぞこのことばを心に刻み込んでください。そして今日はこの詩篇の23篇の最後のことばを紹介しましょう。

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(6節)

 人生にはいろいろな困難や試練が襲ってきます。しかしこの作者は、そうした困難の中にあっても「慈しみと恵みが私を追いかけて来るでしょう」と記しました。困難や試練の中で味わうことのできる恵みや慈しみがあることをあなたは御存知ですか? 人生は順調な時ばかりではありませんね。逆境の中を歩むということもあります。しかしそれは神様があなたを見捨ててしまわれたのではありません。この羊飼いなる方はあなたの痛みを理解し、傷んだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことのないお方です。あなたの「いのちの日の限り、いつくしみと恵みとが」注がれていることをぜひ知ってください。

 そしてこの詩篇は「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」ということばで締めくくられています。旧約聖書の申命記33章27節という所には、「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」と書かれています。とても面白いことばですね。神様ご自身が私たちの住む家となってくださると約束しているんです。家というのは本来自分がそこにいることが良いとか悪いとか決して問われない場所です。ありのままの姿でくつろぐことのできる場所ですね。本当の自分でいられる場所が家であるはずです。家は一番あなたがほっとできる場所であるはずですね。聖書には何と永遠の神様ご自身が私たちの家・住まいとなってくださると教えているんです。これはどういうことでしょうか。

 神様が私たちの家であるということは私たちが神様の中でそのままの姿が本当の安心と安息とくつろぎを得ることができるということなんです。この地上の生涯を歩む時も、永遠の天の御国に移されてからも、私たちは神様という最も安心し、くつろぐことのできる永遠の住まいに住むことができると約束しているんですねえ。

 さてあなたの人生の羊飼いは誰ですか? 新約聖書を読むと、この羊飼いこそイエス・キリストであることを教えています。

 (PBA制作「世の光」2014.11.10放送でのお話しより)

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■主のしもべキリスト / 羽鳥頼和

2014年11月08日 | Weblog
2014/11/08放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 旧約聖書のイザヤ書の42章に、神のしもべについての預言があります。この「神のしもべ」とはイエス・キリストのことであると考えることができます。イザヤ書はイエスの活動するおよそ700年前にその活動を預言していたのです。今日はこのイザヤ書の預言のことばと実際のイエスの活動を比較してみたいと思います。どんなことが分るでしょう。

 イザヤ章42章で預言されている三つの点について見てみましょう。

 まず最初、神がキリストのことを「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。」(1節)ということが預言されています。実際にイエス・キリストが洗礼を受けた時に天から声が聞こえました。それは父なる神の声でした。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ 3章17 節)

 次に、イザヤ書が預言しているのは、神がキリストについて、「わたしは彼の上にわたしの霊を授ける」(1節)と言っているということです。この事も実際にイエス・キリストが洗礼を受けて水から上がった時、天が開け、神の御霊が鳩のように下ることによって実現しました。

 イザヤ書の三つ目のキリストについての預言は、キリストは「国々に公義をもたらす。」(1節)、ということです。実際にイエス・キリストは人々に「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ 1章15節)と語って人々に救いの福音を語りました。この福音こそが私たちに公義をもたらしたのです。福音の内には神の義が啓示されています。その福音とはキリストを信じる者が罪のない正しい者と認められ、神の救いをいただくことができる、というものです。新約聖書ローマ人への手紙3章24節にこのように言われています。
 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 キリスト・イエスによる贖いとは私たちの罪の身代わりとなってくださったキリストの十字架のことです。私たちがこのことを信じれば、私たちは義と認められるのです。キリストの十字架によって私たちに公義がもたらされたのです。

 明日は日曜日です。私たちの救い主キリストに会うためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.11.08放送でのお話より )
 
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■たましいの喜び / 岩井基雄

2014年11月07日 | Weblog
2014/11/07放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 皆さんにとって「喜び」とは何かを経験したり獲得したり他の人からの賞賛だったりすることが多いかもしれませんね。しかし、これからお読みする詩篇の中でダビデが神様に求める「喜び」とは、それらとは少し違うようです。詩篇の86篇3節から5節をお読みします。

 「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」

 ここでダビデは、「あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」とあり、身体や心ではなく魂の喜びと表現しました。魂とは神を求める心の深みにある渇きといっても良いでしょうか。私たちは神様の愛と憐れみを受け取らなければ魂の喜びが満たされることはないのですね。

 このダビデは以前、部下の妻に横恋慕し、その発覚を恐れて部下が戦いで殺されるように仕組むという恐ろしい罪を犯しました。そんなダビデにとって本当の喜びとは魂の喜びであり、神様の憐れみとそして赦しだったのです。この86篇の5節のことばの背景には、出エジプトのリーダー、モーセへの主のことばがあると言われています。イスラエルが罪を犯した時、神は再び憐れみを与える場面で次のように彼に語られました。

 「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」 旧約聖書 出エジプト記34章6節
 
 神様からの憐れみと赦し、そして恵みを受け取ることこそが魂の喜びに繋がっていきます。失敗や過ち、また罪を犯してしまう弱い私たちを神様は憐れみ、私たちの代りに独り子イエス・キリストを十字架にかけ、私たちへの愛と罪の赦しを豊かに示してくださったのです。私たちの本当の喜びに必要なのは、神様の愛と憐れみ、そして赦しと恵みです。あなたも神のもとに来てこの赦しを豊かに受け取りませんか?

(PBA制作「世の光」2014.11.07放送でのお話しより)

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