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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■自分の行いに応じて / 福井 誠

2014年11月06日 | Weblog
2014/11/06放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「自分の行いに応じて」です。それではヨハネの黙示録20章13節から読んでみましょう。

 「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 黙示録19章では、天において大群衆の歓声が沸き起こっていました。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」(1節) 神様を信じ従って来た者が天に迎えられ勝利を祝い、大宴会を繰り広げる、そんなお話でしたねえ。

 20章は、最終的な地上の姿を描いています。聖書は神の主権によって歴史は終焉に向かっている、と教えます。しかし、単に終わるのではなくて新しい天と新しい地に向かっていくのです。この地上はやがて滅びて新しい天と地に置き替えられていきます。その切り替わりの時が描かれていますね。興味深いのは、「海はその中にいる死者を出し」とあることです。今もそうでしょうが、当時、海で死んだ人を見つけ出すことはまず不可能なことでした。地上で死んだ人については、死後みな陰府(よみ)に下ると考えられていましたが、海で死んだ人の運命は全く分からないとすらされていたのです。海の深みは全くの神秘だったのです。

 ところが、終末においてこの海の深みに消え去った人々も皆出て来る。これは一種のたとえです。つまり歴史上のすべての人が一人も漏れることなく神の前に立たされることを言っています。行方が分からなくなった人であれ、事件に巻き込まれ闇に葬られた人であれ、神に忘れられることはなく、神の御前に立つ機会を与えられ、それぞれが自分の行いに応じて裁かれるというのですね。何か恐ろしい気もしますが、聖書はすべての人が神の前で正しいさばきを受け、正しく弁明する機会も与えられるのだ、と言っているのです。

 神様は正しいお方なので、すべての帳尻をきちんと合わせられ、世の流れるまま、横暴のなすままにはさせられないのです。これは人生を誠実に歩み人にとっては慰めです。終末の時は物事がうやむやに闇に葬られることもなく、正しいことが正しいとされ、ふさわしい報いを受ける時となります。神の報いにもれる事はありません。希望をもって歩みたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.11.06放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

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■苦役の労務 / 板倉邦雄

2014年11月05日 | Weblog
2014/11/05放送



 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「苦役の労務」という題でお話ししましょう。

 ドイツの強制収容所での体験を綴った『夜と霧』の作者、ビクトール・フランクは強制労働の実態を生々しく描きました。人間としてでなく、一個の物体として強制労働させられ、病気になるとガス室へ送られる様は、人間が精神性さえ失くしていくと言うのです。

 さて恐らくエジプトの国で強制労働に明け暮れするイスラエルの人々も同じような状態ではなかったでしょうか。多くの日を経てエジプトの王は死にました。しかしイスラエル人は楽になりませんでした。相も変わらず奴隷としてこき使われ、その苦役の勤めのゆえにうめき苦しんでいました。しかし余りの苦しさの故に耐えかね、とうとう主なる神様に助けを求めるのでした。

 フランクルによりますと、強制収容所で生き残った人々は頑強な人ではなく目的をもった人と宗教をもって祈る人だったと記しています。苦役の中で耐えられない時、「神様!」と祈れる人は幸いでしょう。その悲痛な訴えと叫びは天の神様に届きました。神はイスラエルの人々のうめきと叫びを聞いてくださったのです。そして神様はアブラハム、イサク、ヤコブへの約束を忘れることはありませんでした。その約束とは、あなたがたの子孫を約束の地カナンに連れ戻す、という約束でした。神様は天からイスラエルの人々の一部始終を見ておられたのです。そしていよいよ彼らを救出しようと決意されました。イエス・キリストの神は歴史の中に働いておられる神様です。イエスは言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。だからわたしも働くのである」 (ヨハネの福音書5章17節参照)

 しかしながら実際に働かれるには時があります。それは人の時ではなく神の時です。まさにその時が来ようとしていました。時が満ちてイスラエルの人々の苦役の労務からの救出とエジプト脱出とが整いました。

 聖書のことばです。

 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」 第一コリント人への手紙10章13節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2014.11.05放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神のわざが現れるため 9 / 大嶋重徳

2014年11月04日 | Weblog
2014/11/04放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書9章には生まれつき目の見えない青年がイエス様と出会い、目が見えるようになったという出来事が記されています。

 目が見えるようになった一連の中で彼は自分の人生に起こったことを深く考えます。イエス様が言われたことば、「神のわざがこの人に現れるためです。」 これは一体どういうことなんだろうか?

 信仰は自分の人生に起こる理解不能な事柄から逃げ出すためにあるのではありません。むしろ理解不能な事柄を深く忍耐し、深く思い巡らし、自分の人生に向かいあって生きることができるようになるのです。イエス様に目を見えるようにしてもらった彼は、目が見えなかった自分の人生と更に目が見えるようになって目にした人間関係の醜さに愕然としながらもなお、自分の人生に神のわざが現れるとは何だろうか?と考え続けたのです。

 時に、神を信じる信仰であったとしても神は罰を与える存在かご褒美をくれる存在でしかないということがあります。その罰もご褒美も自分で気に入ったものであればご褒美で、自分にとって辛いことであれば神からの罰。つまり結局それを判断している自分が神になっているのです。自分の狙ったように実現すれば「神様、感謝。」 しかし実現しなければ、「神は祈りを聞いてくれない。やっぱり神なんかいない。」 それは分りやすく判断している自分が神になっているのです。

 しかし、自分の分かり易さよりも一歩歩みを進めて、神の前で自分の人生を思い巡らす。自分の人生を、自分の怒り・憎しみ・思惑・分りやすさ・安定で自分は自分の人生を今まで判断していた。しかし神がおられるということを知った。十字架にかかるまでに私を愛してくださった神が愛の眼差しで自分の人生を見つめてくださっている。神が私の人生を見ておられる。神が私の人生で神のわざを表そうとされている。その視線で自分の人生を生きるとき、人生の神様の守りと安心の中で生きる道が開かれていくのです。その時、神に問いながら生きることのできる人生が備えられています。

 ぜひ神様に自分の人生を聞きながら歩む歩みを始められてはいかがでしょうか。

  ( PBA制作「世の光」2014.11.04放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■いつくしみとめぐみ / 関根弘興

2014年11月03日 | Weblog
2014/11/03放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日も世界中の多くの人に愛されている旧約聖書の詩篇23篇からお話をして行きたいと思います。

 この詩篇の冒頭のことばは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」ということばです。これはこの詩篇のキーワードです。そして今日は詩篇23篇の6節のことばを紹介しましょう。

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 このようにこの詩篇の作者は記しています。ぜひあなたに覚えていただきたいことがあるんですね。それは私たちがこの地上に住む間、神様の愛を失うことは決してないということです。私たちの行くところどこにおいても慈しみと恵みが追って来ると聖書は約束しているんですねえ。

 でもこういうことばを聞くと、「いやあ、関根さん、そんな事ありませんよー。私はいつも問題や苦しみに追いかけられていますよー。慈しみや恵みが私を追いかけて来るなどとは信じられません。」、このようにおっしゃる方もいるかもしれませんね。でもそうした中でこの詩篇の23篇の先程のキーワードを思い出していただきたいんです。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」ということばです。

 この詩篇の作者は4節ではこう記していましたね。

 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と。

 この詩篇の作者は、神様を信じたらいつもハッピーで問題なんかすべてなくなりますよ、とは決して記していないんです。たとえ死の影の谷を通ると言うようなそんな辛い経験の中でもそれを乗り越える希望を与えてくださるばかりか、主ご自身が共に歩んでくださるんです、と記しているんですねえ。また落ち込んで起き上がれないような状態にあるときに、魂を生き返らせくださる方がいてくださる、と記しているのです。

 確かに私たちの毎日は苦労がありますし、困難が次から次へと襲って来るのが現実です。しかし聖書があなたに約束していることは、そうした困難の中でも羊飼いなる主はあなたを養い導き、ゆとりを与えてくださり、いつも共にてくださるのだ、と約束しているのです。

 (旧約聖書)哀歌の3章の22節って所にはこういうことばがあります。

 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」 (哀歌 3章22節、23節)

 どうぞ朝ごとに新しい主の恵みと慈しみがあることを信頼し、歩んでください。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがない」のですから。

 (PBA制作「世の光」2014.11.03放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■辛さを幸せにする神 / 羽鳥頼和

2014年11月01日 | Weblog
2014/11/01放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。旧約聖書の時代、ヒゼキヤ王が南王国ユダを治めていた時代のことです。アッシリア帝国の王がユダの国に攻め込んできました。そしてアッシリア軍はエルサレムを包囲したのです。そしてアッシリアの王は死者をエルサレムに送りました。ユダの国の高官たちは話を聞くために彼の所にやってきました。使者は、高圧的な態度で人々に聞こえるように言いました。「ヒゼキヤ王に伝えろ。お前は我々の神により頼むと言っているが、その神がユダを滅ぼそうとしているのだ。」 ユダの高官たちは慌てて、「どうか、あなたの国のことば、アラム語で話してください。私たちは分りますか」と言って何度か周りの人々に知られないようにしようとしました。所が使者は構わず大声で叫びました。「ヒゼキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことはできない。ヒゼキヤは『神は必ず我々を救い出してくださる』と言っているが、そうはさせない。アッシリヤの王は『わたしに降参せよ』と言っている。」 もう絶体絶命と思われました。

 あなたがもしこんな状態に陥ってしまったらどうしますか? 苦しい状況の中にあって周りから「神などいない。いや、いたとしても神は何もしない。」と言われたらどうしましょう?

 事故によって身体が麻痺して動けない星野富弘さんは唯一動く口で絵を書き、そこに詩を書いています。星野さんはある詩で、不自由で苦しい自分の辛さについて語っています。

 幸せという花があるとすれば、その花のつぼみのようなものだろうか。
 「辛い」という字がある。もう少しで「幸せ」になれそうな字である。

 辛いという字に横棒を一本入れれば幸せという字になります。しかしその一本を人は足すことができません。しかし神にはできるのです。辛い現実は神によって幸せになるのです。

 さてヒゼキヤ王はどうなったでしょう。彼は辛い時にも信仰を失わず、神を信頼し続けました。そしてユダの国はこの後、神によって救われます。私たちもどんなに辛い時にも神様を信頼し続けて参りましょう。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.11.01放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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