2016/3/7放送
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
今日も最初に聖書のことばを紹介しましょう。新約聖書エペソ人への手紙3章19節
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」
このことばはこの手紙を記したパウロの一人ひとりへの祈りのことばなんですねえ。私たちには及びもつかない考えもつかないような愛を味わい知ることができるように、という祈りなんです。つまりキリストの愛には限界が無い、尽きることが無い、ということをどこにおいてもどんな状態でも一人ひとりに豊かに注がれているんだということを知ってください、とパウロという人は祈っているんですね。
ではキリストはどのように私たちを愛してくださっているんでしょう。
第一は、キリストの愛は決してあなたを独り子ぼっちにはしないということです。時々悲しみやまた苦しいことを経験したり困難の中に落ち入ると、ああ私はひとりぼっちだ、イエス様も私のことなど分かってくれない、と思うことがあるかもしれません。しかしきリストはあなたの側にていて、「いやあなたは決して独りぼっちではありませんよ、わたしはあなたを愛している」(参照 ヘブル 13章5節、イザヤ書 43章4節、マラキ書 1章2節、黙示録 3:9)と声を懸け続けてくださるのです。イエス・キリストは「わたしはくすぶる灯心を消すことはなく、傷んだ葦を折ることはない」(参照マタイ 12章20節、イザヤ書 42章3節)と約束される方なんですね。
第二に、キリストの愛はいのちを懸けた愛です。パウロはどうしてキリストの愛が人知をはるかに超えた大きな愛だと分かったのでしょう。パウロという人は以前クリスチャンたちを迫害していた男でした。イエスは十字架について死んだ、そのイエスが救い主だなんて宣伝しているクリスチャンたちを許すわけにはいかない、ま、そう考えた訳ですねえ。そうて大勢のクリスチャンたちを迫害していました。パウロがダマスコという町に迫害のために出て行った時でした。その途中、まばゆい光に彼は打たれて倒れてしまったんです。そこで彼は、「なぜあなたはわたしを迫害するのか」という声を聞くんですね。「あなたは誰ですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と声を聞くのです(参照 使徒9章3~5節)。彼の人生の方向はこれ以後180度変わっていきました(参照 使徒26章15~20節)。死んでいたと考えていたイエスは復活し、生きておられる。そればかりか、あのむごたらしい十字架は私の罪を背負って身代わりについて死んでくださったのだ、ということが分かっていったのです。人知を超えたキリストの愛は私たちの罪のためにご自分のいのちを捨て、罪の赦しの道を完成してくださる十字架の出来事の中に豊かに表わされているんですね。
(PBA制作「世の光」2016.3.7放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
今日も最初に聖書のことばを紹介しましょう。新約聖書エペソ人への手紙3章19節
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」
このことばはこの手紙を記したパウロの一人ひとりへの祈りのことばなんですねえ。私たちには及びもつかない考えもつかないような愛を味わい知ることができるように、という祈りなんです。つまりキリストの愛には限界が無い、尽きることが無い、ということをどこにおいてもどんな状態でも一人ひとりに豊かに注がれているんだということを知ってください、とパウロという人は祈っているんですね。
ではキリストはどのように私たちを愛してくださっているんでしょう。
第一は、キリストの愛は決してあなたを独り子ぼっちにはしないということです。時々悲しみやまた苦しいことを経験したり困難の中に落ち入ると、ああ私はひとりぼっちだ、イエス様も私のことなど分かってくれない、と思うことがあるかもしれません。しかしきリストはあなたの側にていて、「いやあなたは決して独りぼっちではありませんよ、わたしはあなたを愛している」(参照 ヘブル 13章5節、イザヤ書 43章4節、マラキ書 1章2節、黙示録 3:9)と声を懸け続けてくださるのです。イエス・キリストは「わたしはくすぶる灯心を消すことはなく、傷んだ葦を折ることはない」(参照マタイ 12章20節、イザヤ書 42章3節)と約束される方なんですね。
第二に、キリストの愛はいのちを懸けた愛です。パウロはどうしてキリストの愛が人知をはるかに超えた大きな愛だと分かったのでしょう。パウロという人は以前クリスチャンたちを迫害していた男でした。イエスは十字架について死んだ、そのイエスが救い主だなんて宣伝しているクリスチャンたちを許すわけにはいかない、ま、そう考えた訳ですねえ。そうて大勢のクリスチャンたちを迫害していました。パウロがダマスコという町に迫害のために出て行った時でした。その途中、まばゆい光に彼は打たれて倒れてしまったんです。そこで彼は、「なぜあなたはわたしを迫害するのか」という声を聞くんですね。「あなたは誰ですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と声を聞くのです(参照 使徒9章3~5節)。彼の人生の方向はこれ以後180度変わっていきました(参照 使徒26章15~20節)。死んでいたと考えていたイエスは復活し、生きておられる。そればかりか、あのむごたらしい十字架は私の罪を背負って身代わりについて死んでくださったのだ、ということが分かっていったのです。人知を超えたキリストの愛は私たちの罪のためにご自分のいのちを捨て、罪の赦しの道を完成してくださる十字架の出来事の中に豊かに表わされているんですね。
(PBA制作「世の光」2016.3.7放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。