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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■いのちを得るために その1 / 山中直義

2013年07月02日 | Weblog
2013/7/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 山中直義です。

 人がいのちを得るために深い平安と喜びをもって命に満ち溢れて生きるために必要なのは信じることだと聖書は教えています。では何をどのように信じるべきでしょうか。ニ週に渡って「いのちを得るために」と題してのバイブル・メッセージです。

 新約聖書ヨハネの福音書20章にはイエス・キリストのよみがえりの物語が記されています。神がどれほど人を愛しておられるかそして人が本当に神と共に命に満ち溢れて生きることができるということを示すためにイエス・キリストは十字架に架かって死に、そしてよみがえられたと聖書は言います。さてそのイエス・キリストが御自身の弟子たちの前にその姿を表わされました。

 ところがトマスという一人の弟子はその時そこに居合わせなかったと言います。他の弟子たちはトマスに「私たちは主を見た。」(ヨハネ 20章25節)と言いますが、トマスはどうしてもそのことばを素直には受け入れることができません。どうして私にだけはよくしてくださらないのか、私のことは愛していないのだろうか、そんな深い悩みが彼の心にあったのだと思います。

 彼はこう言います。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ 20章25節)

 イエス・キリストの身体につけられた傷の跡、それはこのお方がどれほど人を愛したかという愛のしるしでした。トマスはその愛のしるしを求めました。彼がこの時求めていたのは本当によみがえったかどうかという単なる客観的な事実だけではなく、この方が本当に自分の苦しみを知り、自分を愛していてくださるかどうか、その愛を確認することを求めたのだと思います。

 何をどのように信じるか。単なる客観的な事実として知識として認めればそれで良いとは聖書は言いません。この神が本当に愛の神であるかどうか、あなたの苦しみ痛み悩みのすべてを知り、あなたを愛しあなたを生かしてくださるかどうか、その事を信じるかどうかということが問われているのです。まさにトマスはその事を求めて苦悩し、神に問いかけました。どうぞあなたも神の愛を求めてその事について本当に考えていただきたいと思うのです。

 さてこのトマス、この後どうなったでしょうか。続きは次週改めてお話させていただきます。

(PBA制作「世の光」2013.7.2放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


****** このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



 

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