メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「パルジファル」

2023-10-08 16:22:00 | 音楽
ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
指揮:パブロ・エラス・カサド、演出:ジェイ・シャイブ
アンドレアス・シャーガー(パルジファル)、ゲオルグ・ツェッペンフェルト(グルネマンツ)、エリーナ・ガランチャ(クンドリ)、ジョーダン・シャナハン(クリングゾル)、デレク・ウォルトン(アンフォルタス)、トビアス・ケーラー(ティトゥレル)
バイロイト祝祭管弦楽団 合唱団
2023年7月25日 バイロイト祝祭劇場
 
ひさしぶりのパルジファル、この前映像で見たのはいつ、どの演奏だっただろうか。あらためて今回こうして見ると、上演する方もこちら側もそうかしこまってなくてもという感じにはなっている。
 
最初に全体通して聴いたのはやはりバイロイトの録音(NHK)で年末にときどき放送されたものか、あるいは日本初演(1967年、若杉弘の指揮)(なんと!)だと思う。戦後のバイロイトではなんといってもクナッパーツブッシュの指揮が絶対的といっていほどの評価であった。
 
そしてなにしろパルジファルはバイロイト(のみ?)での上演が想定されていて、神聖なものであり、幕が下りても拍手はしないというのが決まりだったと記憶している。

それでもいま手元にあるブーレーズ(1970年バイロイト)あたりから明快な見通しのいい演奏になってきたようだし、カラヤン晩年の録音(1980年)も評価が高い。そうやって聴きやすく(変ないいかただが)なってきて、あのクナッパーツブッシュを聴いてみたら(CD化されて安価になったのもあり)うわさとは違ってテンポも遅くはなく、明快なものだった。
 
さてこの上演では観客に3次元の眼鏡ディスプレーが与えられそれも併せての鑑賞だったそうだ。TV放送では通常の映像のみであったが、こういう風にカメラを舞台に持ち込みそこからの映像を利用するという手法はメトロポリタンのランメルモールのルチア(ドニゼッティ)でもあったからはやりでもあるのだろう。
 
今回の上演、衣装などはかなり現代に近いところもあり、そこは自由にやっている。パルジファルはTシャツで前にはいくつかの赤いハートマーク、背中にはRemember Me (?)。
冒頭からグルネマンツとクンドリに似た女(黙役)のラブシーン、これもアンフォルタとのクンドリの関係などと対照させるのだろうか。
 
グルネマンツは娼館を取り仕切るやりて親父の風貌、衣装、そして今回気がついたのだが、台詞で自らの男性としての性的不能(?)、禁忌(?)がアンフォルタス、クンドリとの関係につながっていて、あそうかとわかってきた。
 
すこし慣れてきたからか音楽は意外と雄弁でわかりやすく、宙に浮く槍、最後の聖餐など、よく味わうことができた。
 
演出で本来の台本と一番違うのは終盤の聖杯のあつかいだろう。瀕死のアンフォルタスが聖餐を行うのを助け、最後はパルジファルが新しい王になることを暗示させて終わり、クンドリはこときれる、というのが本来だが、ここではパルジファルは聖杯を地に打ちつけ、クンドリと並んで終わる。
 
台詞は一切いじっていないから演出の範囲なのか、それでもやりすぎなのか。見ていてこういう演出もぎりぎりありかな、と思ったが、終わって少し「ブー」があった。拍手の方が大きかったが。
この最後はそういう演出もありかな、限界的だがと考える。おそらくパルジファルとクンドリで新しい時代をつくるか、ということだろう。

歌手たちはグルネマンツ、パルジファルを中心に違和感なく聴けたが、ここはなんといってもエリーナ・ガランチャで、急遽の代役という話もあるけれど、あのメトロポリタンのカルメンが十数年たってここまでとは。誘惑的な部分はぴったりだが、もうそれ以上のもがあって、いずれブリュンヒルデもあり? なんとカーテンコールの最後がクンドリというのも珍しいことだろう。
指揮のカサドは知らなかった人だが、手際よく聴きやすかった。




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チェーホフ「かもめ」

2023-10-07 15:32:14 | 本と雑誌
チェーホフ:かもめ(喜劇 四幕)
          神西 清 訳  新潮文庫
チェーホフ(1860-1904)の小説(主に短編であるが)は若いころからそれなりに読んできた。しかし四つの名高いタイトルに代表される戯曲は全く読まないできた。演劇をそれほど見に行かなかったせいもあるし、演じる劇団、俳優など、日本の時代背景もあるが、どうもあまり気が向かないということもあったように思う。それでも三島由紀夫の作品などはそれなりに見てきた。
 
さて「かもめ」は1895年の作品、四大作品の最初である。ロシアの田舎、大地主の家族と、つながりのある女優、文士、医師、教員、それらの家族たち、この地ではどちらかというと上の階級であり、一部はインテリでもある。ロシアの小説にはよくあるように、なやめる若者、ふさぎの虫というか、時代状況も反映してか何かたまっているというか鬱屈したところがある。
 
女優とその息子で文学志望の若者、文士、それに若い娘二人、ここらが主たる構図だが、第一幕はその人たちが次々に登城、関係性がなかなかわかりにくい。もっとも舞台をみていればもとへ戻ったり、書き物を繰ったりることもできないのであって、それは進行に身を任せながらということになる。
 
それでも第二幕の後半あたりから個々の台詞が長くなるからか(説明としてたっぷりにもなるからか)話の進展にのりやすくなり、第三幕から二年たった第四幕で、中心人物たちの思いのたけが一挙にこちらに向かってくる。このあたりはやはり読ませる。
 
娘の一人ニーナ、文士と一緒になるがわかれ、なんとか忍耐しながら女優として生き抜くという意外な歩み、最初から一目ぼれしてしまった女優の息子トレープレフ、終盤になってのこの組み合わせは、チェーホフなかなかだなと思わせる。

最後に出てくる自殺の報は、人間関係の構図の変遷で少しはやっぱりとはいえ、唐突と思ったが、これは演劇だからかもしれない。小説であればそこに至る思い、想念をいくらでも書けるけれど、演劇であればそうはいかない。見ているものに投げかけるということでいいのだろう。
でもテキスト全体はそう長くはないから、また読み返してもいい。劇なら何度でも見られるし。
 
ところで私の世代であれば「かもめ」で思い浮かぶのは世界で最初の女性宇宙飛行士テレシコワ(ソ連)のコールサインが「かもめ(チャイカ)」だったことで、、わたしはかもめ(ヤー チャイカ)は当時よく飛び交っていた。当時あの体制の国でもこれはなじみやすいものだったのだろう。




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