「オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える」
木村元彦著 (2005年12月 集英社インターナショナル)
イビツァ・オシムのサッカー観、その根底には一つ一つのゲームとそれにかかわる人々への敬意がある。
ジェフ・千葉のファンではないがオシムという人には少しずつ興味を持ち始めていたし、日本チームの監督に一度なってもらってもいいかなとは思っていたし、この本も読む予定だったが、事態がこんなに早く進むとは思わなかった。
以前から旧ユーゴ、そのサッカー、そしてオシムを追い続けた著者のこの本、昨今のオシムに関する情報はほとんどこれをその源としている。
旧ユーゴがたどった複雑な過程、そしてその中で生き抜いてきたボスニア人でありサッカー人であったオシムの人生と、その監督としての軌跡、オシムはその理論をまとめて語ることはないから、多くのエピソードを拾いながら彼のサッカーとはという問いに対し考える材料をこの本は提供している。
オシムのサッカーでは、4バックや3バックなどのフォーメーションにとらわれず、相手を見ながら、どうマークし、どう相手を崩し、守勢に変わればどう穴を埋めて反攻に転ずるか、考えながらやる、とはよくいわれるものである。
確かに地力に極端な差がないときは、対峙状態からどこかでブレークを起こしスペースを作り優位状態を作って得点しなければならないが、それは一度は自軍のバランスをも崩すことであり、相手がそこを突いてくる前にカバーをしなければならない。
考えろ、走れ、というのはそのためである。
結果としてはいわゆるオランダのサッカーに似ているかもしれないが、それよりさらに常時スクランブル態勢にということだろうか。
だが考えてみればこれはローマ帝国など古来の陸上戦闘においても似たようなことであった。「ローマ人の物語」(塩野七生)でもそうだったと思う。
そういえば旧ユーゴのバルカンは、ローマ帝国においても戦闘が絶えなかったところであり、傭兵から功績でローマ人になった人も多かったに違いない。
ここから多くのサッカー指導者が出て世界に散っているのは、近代と古代と、両方にそのルーツがあるのだろうか。
一見対照的だが、このオシムが指導する日本チームとあのフィリップ・トルシエに忠実に従いフラット3フォーメーションをとるどこかの国のチームとやったら面白いと思う。 結果は? わからない、だからサッカーは面白い。
ところでオシムの言葉が箴言めいていて意地悪く聞こえるのには、日本のジャーナリズムに対する教育的な意図もあるのではないか。
彼らの質問は、システムの問題、殊勲者は誰(つまり誰をスターにしようか)、今後の見通し、日本代表はどうなる、代表の勝算は、、、どれも今のこのゲームそのものに対してではない。オシムにとって一つ一つのゲームは、そんなに思い通りにいくものではなく、そういったところで勝つことも負けることもある、それをどう見て、どう受け取り、考えるか、必ずしも結論がでなくても、その繰り返しである。サッカーの尊さはむしろそういうところにある、面白さはそういうところにある。だから、見出しを作りたい、ファンタジスタを仕立て上げたい、などというメディアには皮肉も言いたくなるというものだ。
日本のサッカーはこれまで特にドイツ、そしてブラジルの影響を受けてきた。この半世紀、ドイツのクラマー、ブッフバルト他、そして監督ジーコに至るまでの数々のブラジル人たち。
その一方で、かなりの旧ユーゴ系の選手、コーチ達もいた。そして今オシム、母国で要職についたストイコヴィッチと、世界有数のサッカー指導者輸出国といいコネクションが出来るのは歓迎すべきことだ。