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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ばらの騎士 (メトロポリタン・オペラ)

2011-03-20 15:37:40 | 音楽一般

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
2010年1月9日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2011年2月20日(日)NHK BShi 放送
指揮:エド・デ・ワールト、演出:ナサニエル・メリル
ルネ・フレミング(マルシャリン)、スーザン・グレイアム(オクタヴィアン)、クリスティーネ・シェーファー(ゾフィー)、クリスティン・シグムンドソン(オックス)、トマス・アレン(ファーニナル)
 
このところオペラは実演はもちろんビデオでもあまり見ていないのだが、2月下旬にメトロポリタンの演目がいくつか放送され、そのうちいくつか録画しておいた。年末に地デジ対策と同時にHDDブルーレイ・レコーダーを買ったので、こういう長尺ものを録画してみるのは楽である。
 
いまさらいうのも変だけれども、この間のオペラ録画の進歩は著しいようで、演奏よりなにより、音がダイナミックレンジ、バランスとも格段に良く、また精細度が高く奥行のある画面が音楽に見事にあったカメラワーク・編集とともに、疲れないで、しかも味わいやすいようになっている。
もっともこれは媒体およびこちら利用者側の機材の進歩と無関係ではないようで、80年代後半、カラヤン晩年のものなども最近DVDで見ると、以前よりレベルが高くなったように受け取れる。この人の将来を見通す眼はやはり並ではなかったということだろう。
 
そういう条件のなかで、ルネ・フレミングのマルシャリン、これは現在評判ということは知っていたがおそらく史上もっともすばらしいマルシャリンではないだろうか。声がきれい、姿もきれい、品もあり、このはしゃいだ開幕からしだいに忍び寄る歳の、時の流れの影に対する不安、諦めと決心、、、これらも見事。
 
スーザン・グレイアムのオクタヴィアンも歌唱、演技はいい。がこの17歳という設定のズボン役としてはちょっと体格が良すぎる(特に身長が)。もっともオックスのシグムンドソンが巨人だからこの人との対照からは変ではないのだけれど。 
 
ゾフィー役は可愛く、純朴であればいいのでシェーファーは可もなく不可もないというところ、ただ表情が神経質に見えるのがちょっと難。
 
衣装、装置はヨーロッパであれば違う色調になったと思う。例えば紫、モスグリーン中心とか。やはりアメリカという感じ。
 
指揮のエド・デ・ワールト、風貌を見ると、このオペラのように「時の流れ」が主役という感はがする。若くしてデビューしたこのオランダ人、最初のレコードは確か小さいオケを指揮したモーツアルトで、そのころの写真は白いTシャツのいかにも今風の若者といった感じだった。彼の指揮でスムーズに流れるオーケストラの華やかな音は、こういうカウチでの鑑賞にはぴったりだ(皮肉ではなく)。
 
「ばらの騎士」を舞台で見たのは、最初が1977年パリ・オペラ座でシルヴィオ・ヴァルヴィーソの指揮、1984年に来日したバイエルン国立歌劇場でカルロス・クライバーの指揮、この2回だけで、あとはクライバーがこのあとウイーンで振ったビデオだろうか。カラヤンの2つはLDで出たときともかく買っておいて持っているけれどもまだ見ていない(いずれ見よう)。
 
最後の全員が去った舞台に、マルシャリンのお小姓モハメド(子役)が出てきて何かを探し回りマルシャリンのハンカチを見つけて去っていく、この場面がある。これなんだろうとずっと考えてきたが、自分の時代が終わり、次の世代の時代になることを受け入れて去るけれども、なにか忘れ物風に残していきたい、大切なものを、とい象徴なのだろう。
 
幕間でかのプラシド・ドミンゴが女声にインタビュー、女性のだれだかが男声(オックス)にインタビューしていて、これも楽しめるし役に立つ。たとえばこのオペラ、最初は「オックス男爵」というタイトルだったそうで、それをシュトラウス夫人がそれでは売れないと「バラの騎士」に変えるよう進言したという。それはもっともで、オックスの歌、演技、風采が立派でないとこのオペラは成り立たない。この人の退場とマルシャリンの退場の、共通する意味がありながら違う味わいを醸し出すのもそうだし、若い二人に追い出されても、必ずしも二人だけが受け入れられるというわけでないという余地を残すためにも。
 
そういう意味では、この演出はヨーロッパ流のそこはかとないペーソスには不足したが、最後のオックスを追い出そうという騒ぎの中、若い二人とマルシャリンをほとんど静止させていたのは、単なる追い出し劇ではないということをしっかり出していた。