生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

クリスチャンって立派な人?

2011-07-16 11:57:15 | 聖書から
クリスチャンというと、真面目とか立派とか品行方正という言葉を思い浮かべる人が多いようです。

かつてわたしは(こんないい加減なわたしがクリスチャンといえるだろうか……わたしがクリスチャンだと知ったら、みんなつまずいてしまう)と恐れ、クリスチャンであることをまわりの人に言えませんでした。
でも、その考えは間違っていました。


家庭集会では『 神の熱心 』 (朴永善著 モリソン社)から アブラハムについて学びました。
アブラハムが信仰の父と呼ばれるのにふさわしい人物であったかどうかについて問題提起しています。

アブラハムといえば、「ひとり息子のイサクを捧げよ」という神の命令に忠実だった信仰深い人を思い浮かべます。
でも、最初から信仰深かったわけではありません。

神様は、偶像礼拝の盛んな町ウルに住んでいたアブラハムにカナンの地へ行くように言われます。
アブラハムは信仰深かったので、神様から選ばれたのだ。そして信仰によって神様の言葉に従ったのだと思いがちです。実際わたしもそう思っていました。

でも、その時点では、アブラハムも父テラに習って偶像を拝んでいました。偶像礼拝は罪深いことです。

『アブラハムは罪深い者であったけれど、神様はそこから連れ出された』
と聞いて自分が誤解をしていたことに気づきました。

アブラハムの前に主が現れ、アブラハムは主の声を聞いてウルから出て行きます。ひとりでではなく、父のテラと親族一同が一緒でした。

神様はカナンへ行くように言われましたが、アブラハム一行はカナンではなく、カランの地まで行ってそこに住みつきます。(創世記11:31)

カランはメソポタミア文明圏のさいはての地だそうです。彼らがカランより先に行けなかったのは、当時の社会において自分の財産と命を守るため文化圏を越えられなかったからなのだそうです。
越えられなかったということは、テラにもアブラハムにも信仰と呼べるものがなかったことを意味します。宗教的な恐れからカランまでやってきたにすぎなかったのです。

テラがカランの地で死んだ後、神様は再びアブラハムに現れ、アブラハムにカランから出て示す地に行きなさい。そうすれば祝福しますと言われます。そしてようやくアブラハムはカランから旅立つのです。


『アブラハムが祝福されたのは、そうなるだけの然るべき理由が彼にあったはずだと思ってしまうことが問題である』

と聞いて、わたしの中にもなんとなくそう思っていた自分がいたことに気づきました。
テキストには「すべての結果には原因が必要だと考えることは不信仰です」と書かれていました。

アブラハムが正しくて立派だったから神様が選ばれたわけではないことを思うと、クリスチャンは正しい人、立派でなければいけないという考えは間違っていることになります。



『クリスチャンとは正しい人ではなく、自分のどうしようもなさに気づいている人である』
と牧師先生が言われました。その通りです。


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)」




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