生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

人は変わる(その2)

2011-07-21 20:39:23 | 教会
昨日の続きです。
マルコは裏切り者と言われるようなことをしてしまいましたが、変えられました。


「日常生活でも仲間から失望させられたり、裏切られたりすることがあります。でも、人は変わるのです。
自分もその人と同じような過ちを犯すことがあるかもしれません。それなのに人は、他人の欠点を見つけるとなぜすぐに断罪してしまうのでしょう。

神様が明日、その人を変えて下さらないと誰が言えるでしょう。
どんな状態になっていても、神様が明日相手を変えて下さるかもしれません。相手だけでなく私を変えて下さるかもしれません。神には人を変え、人を成長させる力があります。」

と牧師先生が言われました。


かつてわたしは卑怯者と言われても仕方ないことをしました。自分が悪く思われないために嘘もつきました。
そんなわたしを見て絶望した人もいたでしょう。傷ついた人もいたでしょう。

でも、神様はこのようなわたしを見捨てずにわたしが変わることを望んでおられました。
わたしは変わりました。いえ、わたしの力で変わったのではありません。神様が変えて下さったのです。

こんどは、わたしが過ちを犯した人を赦し、その人が『明日変わるかもしれない』と信じて、その人のために祈る者になります。このわたしが変わったのですから人は誰でも変わり得るのです。

おわり




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人は変わる(その1)

2011-07-21 20:27:20 | 教会
立派な人、正しい人がクリスチャンであると誤解している人が多いと先日(16日)書きました。自分のどうしようもなさに気づいている人がクリスチャンであるなら、クリスチャンどうしで対立したり反目しあったりすることはないのでは?・・・と思っている人がいるかもしれません。実は、以前わたしもそう思っていました。

同じ考えを持つ者だから反目することはない。誤解することもされることもないと思っていたのですが……いえいえ、そんなことはありませんでした。

同じクリスチャンでも、育ってきた生活環境が違うのですから、感じ方考え方がそれぞれ違うのは当たり前です。ときには意見が対立することもあります。


17日の礼拝メッセージでは、パウロとバルナバの対立のことが語られました。
使徒の働き13:13には、パウロの一行が船出してペルガに渡ったとき、マルコ(ヨハネ)は一行から離れてエルサレムに帰ってしまったと書かれています。
ヨハネとも呼ばれるマルコは、バルナバの甥です。なぜマルコが一行から離れてしまったのでしょうか……。
困難な旅が予想されるのでこわくなってしまった。あるいは伝道旅行のリーダーシップが叔父のバルナバからパウロに移ったのでそれを不満に思った。など推測できますが、聖書には書かれていません。

それから数年後、マルコのことでパウロとバルナバが対立してしまいます。
「ところがバルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネをいっしょに連れていくつもりであった。しかし、パウロはパンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。(使徒15:37.38)」と書かれています。

ここで使われている「離れる」という言葉は『離脱』であり、英語では「見捨てる」「脱走する」の意味があるそうです。
教会では派遣式が行われ、パウロ、バルナバ、マルコは送り出されたのに、マルコが勝手にエルサレムに帰ったことは、仲間を見捨てることであり、裏切りと受け取られても仕方ない行為だったそうです。

マルコのことでパウロとバルナバは対立して、別行動を取ることになりました。バルナバはマルコを連れてキプロス島へ行き、パウロはシラスを連れてシリヤ、キリキヤ方面へ行きました。


「どちらが正しいかと問うのは、意味のないことです」
と牧師先生が言われました。
結果的には2つのルートで伝道されることになりました。聖書にはパウロの足取りしか書かれていませんが、バルナバの一行もキプロス島でよい働きをしたのでしょう。

ところが、それで終わりではありませんでした。パウロはその後、ローマで軟禁状態になりますが、そのとき書いた手紙の中に「マルコを伴って、いっしょに来て下さい。彼は私の務めのために役に立つからです。(Ⅱテモテ4:11)」と記されています。

パウロがこのように書いたのは、マルコがその後、立派な奉仕をしてパウロに認められるようになったことのあかしです。

マルコは変わったのです。パウロはマルコのことで失望し、マルコを弁護するバルナバと反目してしまいましたが、のちにマルコを認め、赦しています。


マルコが変わったのはなぜか書かれていませんが、わたしの想像では、マルコは自分のとった行動のためにパウロとバルナバが反目してしまったことに心を痛めていたのではないでしょうか。
神様のみこころに従わないで自分の思いで行動してしまったことを悔いていたのでは……と思います。
そして神様に祈ったことでしょう。神様はそんなマルコのうちに働きかけて下さり、マルコを忠実な働き人に変えて下さったのだと思います。
             
つづく



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