今年の2月にくも膜下出血で突然召されたTさんの忘れられない思い出があります。
「Tさんの思い出」としてアンケートにわたしが書いたものを掲載します。
病気の方や高齢者の方のところに訪問する奉仕、訪問隊に参加したときのことです。一時入院したSさんを見舞おうとして病院へ向かいました。そのときTさんは、可愛いミニ鉢植えをいくつも持ってきておられました。
病院へ行くと、手違いで退院した後でしたので、Sさんのお宅を訪れたのですが留守でした。結局見舞うことができなかったのですが……Tさんは帰りがけに「ご苦労さま」と言って、鉢植えのひとつをわたしに下さったのです。
また、横田めぐみさんの写真展の会場奉仕をしたときは、奉仕者にお茶とお菓子を持ってきて労をねぎらってくださいました。
Tさんは、一緒に奉仕する者にまで心づかいをして下さる、そのような優しい方でした。わたしが乳がんになってからは、教会で顔を合わせるたびに「大丈夫ですか?」とたずねてくださいました。
Tさんから受けた優しさをほかの人に示すことができるように祈っています。
Tさんの死はあまりにも突然で、訃報の知らせを聞いたときはショックですぐには受け入れられませんでした。わたしでさえ衝撃を受けたのですから、ご家族の方の受けた衝撃はどれほど大きかったことでしょう……。
あんなにお元気だったのに、まだお若いのに、ご主人をはじめ多くの方に必要とされているのに何故?……という思いが湧きあがります。
けれども、考えてみると高齢で召される場合を除けば、人の死は、本人も周囲の人も納得できないことが多いのではないでしょうか。
たとえ末期癌で余命を宣告され、宣告どおりの時期に召されたとしても、なぜ自分が志半ばで死ななければならないのかと理不尽に思うでしょう。
でも、理不尽だと思うのは人間の側であって、神様の側から見ると、その人のちょうどよい時に天国へ迎え入れて下さるのですから、ちゃんと理にかなっているわけです。このことは、癌になって命のぎりぎりのところに立たされて気づかされたことです。
命を与え、命を取ることのできる神様はどんなときでも最善をなして下さると信じます。
Tさんのご遺族の方々に主にある慰めがありますように。
Tさんの、優しい心づかい、笑顔、愛のこもった言葉がわたしの心にしっかりと刻み込まれています。わたしだけでなく、多くの人の心にも刻まれているでしょう。
三浦綾子さんが著書の中でも引用していますが、
<人が死んでのちに残るのは、集めたものではなくて散らしたものである >
(ジェラール・シャンドリー)
この言葉は真実だなあとTさんの生き方をみて思いました。
おわり