今月初めに行われたクリスチャン・ペンクラブの研修会「オータムジョイフル」のことは先日書きましたが、その折に提出した課題文を紹介します。
クリスチャンでない方は「福音(ふくいん)」の意味がわからないのではないかと指摘を受けましたので、福音ということばをキリストと書き直しました。「キリストのして下さったこと」と書いた方が正確ですが…・・・
ちなみに福音とは、『良い知らせ』という意味です。聖書の良い知らせとは、神の御子イエス・キリストを救い主として信じる者は、罪赦され、神との関係が回復され、だれでも永遠のいのちをもつことができることです。
書くことの原動力
子供向けに童話や小説を書き始めて17年になります。作品ができると児童文学同人の合評会に持っていき、厳しい批評を受けています。
構成が悪い。登場人物の性格の違いがはっきりしない。情景描写が足りない……など言われ、何度も何度も書き直します。書き直したものを持って行っても、これでよしなどと言われることはまずありません。
ダメなところばかり指摘されて、書く気力さえ失ってしまうことがあります。それでも、気を取り直して書き続けます。どんなことを言われても書き続けられるのは、作品を通して子どもに福音を伝えたいという思いがあるからです。
「上から助けが与えられるというストーリーではダメです。テーマを考え直して下さい」あるとき児童文学の会でこのように言われました。言った方はクリスチャンではありません。さらに、その方は言われました。
「主人公が努力して自分の力で勝ち取っていくストーリーに書き換えれば、素晴らしい作品になるでしょう。作家としてデビューしたいなら、言うことをききなさい」
作品が認められること、作家としてデビューすることが書くことの目的だとしたら、わたしはその方に言われたとおりに書き直したでしょう。でも、わたしは書き直しませんでした。
その後、色々なところに投稿しても入選することがなく、書くことがみこころではないのかもしれないと思いはじめたとき、なぜ自分が子どもたちにキリストを伝えたいのかを改めて考えてみました。中学二年の時、生きる意味が見いだせずに毎日が虚しく、死を願う日々だったこと。そのようにつらい思いをしている現代の子どもたちにキリストを伝えたいと願ったからこそ書いてきたのです。
原点に立ち返って必死に祈りながら書いた作品に小さな賞が与えられ、その後、別の作品で一冊の本を出版していただきました。
現在はファンタジーの長編に取り組んでいますが、ファンタジーはそれまで書いてきたリアリズムの作品より何十倍も難しいのです。わたしの知恵、文章力、想像力……持っているものすべてを総動員させても書き上げることは不可能です。わたしには無理なのだと半ばあきらめの心境になったとき、神様には不可能ということがないと気づきました。
「神様、どうしたらいいのですか?」と祈ると、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』のみ言葉が示されました。小説の書き方を学ぶより、まず神様のことを第一に求めるべきだといわれたように思いました。
具体的にどうすればいいのだろう……と考えていたちょうどそのとき、0聖書学院で聖書科通信の学びがあることを知りました。それで、とびつくように旧約聖書の学びを始めました。学びを通して神様がどれだけわたしのこと愛しておられるかがわかって、胸が熱くなりました。
この熱い思いを作品に託そうとペンをとりました。この思いの高まりが書くことの原動力となって、書き上げることができたのです。私の知恵でも力でもなく、主の力によって書き上げられたのだと確信し、感謝しています。
この夏はオリンピックもほとんど見ないで創作に打ち込みました。いよいよ明日、書き上た作品を持って児童文学の会の研修会に出かけます。(作品は参加者全員に8月中に送っています)どのような評価を受けるか……覚悟はできていますが、神様のみ手にゆだねて…・・・。