娘が一人暮らしのアパートを引き払って家に戻ってきてから4か月半たちました。6月に宿泊合宿で運転免許をとり、7月、8月は夏休みだからとゆっくりして、9月から働く予定にしていましたが、まだ仕事が決まりません。家事は何もせず、昼まで寝ていて……こちらにストレスがたまってきていました。
夕べはほんの些細なことで娘にひどいことを言い、娘は泣いて部屋にこもってしまいました。
娘との親子げんかは日常茶飯事ですが、今回はどう考えても一方的にわたしが悪く、いいわけのしようもありません。あやまらなくては……と思うのに、口を開いたらまたひどいことを言ってしまいそうな気がしたので、夕べは娘と一言も口をきかずに寝てしまいました。
一昨日ジェラール・シャンドリーの<人が死んでのちに残るのは、集めたものではなくて散らしたものである >という言葉を書きましたが、Tさんは良いものを散らし、わたしは悪いものを散らしているのではないか……と恐ろしくなりました。
わたしの口から出る言葉によって、娘だけでなく多くの人の心を傷つけているのではないか?どんなに気をつけていても、これから先も悪いものを散らし続けるのではないかと恐れ、悲しくて泣きました。
悪い言葉、傷つける言葉の元はわたしの心にあります。わたしの心には罪があるから、二度と悪い言葉を言わないようにしようとしてもダメなんだと落ち込んでしまいました。
今週月曜から毎朝早天祈祷会が行われていますが、夏の疲れが出て肩と首が痛むので出席していませんでした。今朝も行くつもりはなかったのですが、目が覚めると5時50分です。早天祈祷会は6時からなので急げば間に合います。失意のまま一日を過ごしたくないと思って、大急ぎで着替え、洗面をすませて自転車に飛び乗ました。
わたしの心にぴったりのK先生メッセージに神様の臨在を感じ、震えました。
クリスチャンになっても、恐れを感じることはあります。自分の失敗、無能さについて恐れ異様な不安を抱くことがあります。(まさに今のわたしの状態ではありませんか)
でも、わたしたちは、恐怖より力強い方を知っています。と言って詩篇91篇を読まれました。
いと高き方の隠れ場に住む者は、
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、
私の信頼するわが神」と。
主は狩人のわなから、
恐ろしい疫病から、
あなたを救い出されるからである。
(略)
千人が、あなたのかたわらに、
万人が、あなたの右手に倒れても、
それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、
悪物への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、
いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
『いと高き方の隠れ場に住む者』とは誰でしょう? と問われ、わたしではないと思いました。娘の心をひどく傷つけてしまったわたしです。全能者の陰に宿りたいけれど、その資格はないと思いました。
そのとき、エペソ人への手紙が読まれました。
「私たちは……生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、-あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです-
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:3-6)」
いと高き方の隠れ場に住む者とは、なんとわたしのことだったのです。生まれながらに神の御怒りを受けるべき子だったわたしですが、キリストがわたしを包み込んでくださり、キリストが死ぬことによってわたしを天の所へ住まわせてくださったのです。
詩篇91編14節以下は彼を自分の名に置き換えて読むようにすすめられました。
彼がわたしを愛しているから、
わたしは彼を救いだそう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉を与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。
涙をこらえるのに必死でした。わたしは罪ある者ですが、その罪をイエス様がぬぐって下さったのではありませんか。全能者の陰に宿ることができるのですから、どんなものも恐れる必要はないのだということを改めて教えられ、心軽くなって帰りました。
娘と顔を合わせたとき、わたしは素直にあやまりました。
ちょうどそのとき電話がかかってきて、娘のアルバイトの面接が明日に決まりました。明るい方へ向かっている気がします。