クリスチャン・ペンクラブの研修会オータムジョイフルは、埼玉県寄居で行われました。私の住む茨城県土浦市からは、直線距離にすればそれほど遠くないかもしれません。でも、電車ですと上野まで出て高崎線に乗り換えなければなりません。上野から熊谷まで快速で約1時間、熊谷から秩父鉄道に乗り換えて30分ほどで寄居に着きます。家を出てから上野まで行くのに1時間半かかるので乗り換え時間を入れると4時間もかかり小旅行という感じです。寄居も熊谷も初めてだったので、どんな所なのかとわくわくしました。
埼玉で行うということで、埼玉県とゆかりのあるキリスト者について3人の方が発表してくださいました。その中で荻野吟子の生涯に心惹かれました。
荻野吟子は日本で第一号の女医ですが、わたしは数か月前まで彼女について何も知りませんでした。渡辺淳一の「花埋(うず)み」という小説を友人から貸してもらって読み、荻野吟子のことを初めて知ったのです。
1851年生まれの吟子は、16歳で結婚しますが夫に性病をうつされ、3年で離婚されてしまいます。順天堂病院に入院し、治療を受けますが、医師がすべて男性であったためひどい屈辱を受けたと感じ、女性の医師の必要性を感じます。
自らが医師になるという志をいだいて上京し、東京女子師範学校を卒業したのち私立医学校好寿院に入学します。そこでは、女性がひとりもいないのでいじめを受けますが、袴に高下駄をはいて通ったそうです。
1882年(明治15年)に卒業し、内務省医師開業試験を受けようとしますが、女性であるがゆえに拒絶されてしまいます。
その時代は、女性の立場が低かったことを思わされます。
性病になったのはご主人のせいなのに離縁されてしまうなんてあんまりです。
女性の名前でキクとかウタとかウメなど2文字が多いのは、夫が呼びつけて用事を言いつけやすいようにとの理由からだそうです。吟子も、“ぎん”だったのを自分で吟子としたようです。
女性が本を読んだら離縁される時代でした。ましてや勉強して医師になりたいなどと言ったら、気がふれたと思われてしまいます。医師になることを希望した吟子が実家で反対されたのは当然かもしれません。それでも吟子に味方をし、助ける者があって、明治18年医師試験を受けることができ女医第一号となりました。吟子34歳のとき、ついに開業できたのです。
今の時代では考えられませんね。以前教会の学び会で、「創世記には女性は男性の助け手として造られたと書かれています。だから、妻は夫に仕えるものです」とうようなことを誰かが発言したら、怒って帰ってしまった女性がいました。伴侶のことを「夫」とは呼ぶけれど、「主人」とは決して呼ばないという女性も多いです。
医師になった翌年に吟子は洗礼を受けています。キリスト教演説会を聞きに行ったことがきっかけで教会へいくようになったようですが、クリスチャンになって心がどのように変化したのかは、「花埋み」には書かれていません。
渡辺淳一氏はノンクリスチャンですから当然ですが、クリスチャン作家によって書かれた小説があればぜひ読みたいと思いました。
その後吟子は再婚し、北海道へ行ったり、苦労を重ねますがキリストと共にある平安と喜びに満ちた人生を送られたのだと信じます。
帰りに熊谷駅の売店によると荻野吟子にちなんだ「吟子せんべい」が売っていました。
吟子の愛唱聖句を紹介します。(文語訳聖書)
「人その友の為に己の命を損なう 此れより大なる愛はなし。(ヨハネ15:13)」
つづく