よきサマリヤ人のたとえ話は、よい行いをして永遠の命を得るようにと教えているのではありません。イエスさまを信じて永遠の命を得た者として、よい行いをすることを教えています。
サマリヤ人のとった行為をていねいに話しているのは、サマリヤ人のような愛の行為をめざしてほしいというイエスさまの願いがこめられているのです。
最後にたとえを話すイエスさまに注目してみましょう。よきサマリヤ人のたとえを聞くと、サマリヤ人を自分に置き換える人が多いでしょう。実は、半殺しになった旅人が自分で、瀕死の状態のわたのところにイエスさまがサマリヤ人のように来て助けて下さったのだと気づくのです。
イエスさまの話を聞いた律法専門家のその後のことは書かれていません。果たして、ひねくれ者の彼はイエスさまの願われたように自分の罪に気づいたのでしょうか?
もうひとり、ここにひねくれ者がいます。それはわたしです。
わたしは、サマリヤ人のたとえ話を読んだとき、自分はレビ人か祭司のようだと思いました。神さまは「自分と同じように隣人を愛しなさい」といわれますが、とうていできることではありません。
まず、自分のことを優先してしまうのです。困っている人を見たとき、すぐに行動を起こせない自分に悲しくなります。混んだ電車に乗って、ようやくの思いで座れたとき、高齢者の方が前に立った場合、席を譲ることができなかった自分を責めます。
友人から家庭生活の大変な状況を打ち明けられたとき、『自分がそうでなくてよかった』とまず思ってしまいました。共に泣き、心から同情する前にそう思ってしまったわたしは、愛のない人間です。ごめんなさい、Aちゃん。
自分がこれほどまで愛に欠ける者だったと知って絶望しました。わたしのできることは、友を愛することでなく、友のために祈ることだけです。
自分のふがいなさに傷つきボロボロになったとき、イエスさまがそっと近づいて来て下さいました。そして、聖書の言葉によって慰めてくださったのです。
わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩編42篇11)
涙、涙……
*牧師先生が語られたことは青字、聖書の言葉は緑字にしています。
おわり