
障がい者を見て、「何かのたたりだ。先祖が悪いことをしたのだろうか?」と思う人が現代にもいるということは、悲しいことです。イエスさまの時代にもそういう人たちがいました。
ヨハネの福音書9章には、イエスさまの弟子が質問しています。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
神のわざがこの人にあらわれるためとは、何と喜ばしいことでしょう。
障がいは、その人、または両親(もちろん先祖も含めて)が何か悪いことをしたせいではないこと。
障がいは、神さまが人間を造るとき間違えて(失敗して)しまったのでは決してないこと。
障がい者も神さまによって造られた尊い人間であること。
障がいを持って生きることに使命があるということ。
障がいは、神さまの栄光をあらわすために与えられたのだということ。
これらのことを日本中、いや世界中の人たちが知ってほしいと思います。
障がいを持った子供が普通学級で過ごすことによって、周りの子供たちの心に優しさが生まれたと聞きました。
障がい者と共に過ごすことによって、他者に対して配慮することを学びます。優しさが引き出されます。
本来の人間らしさがあらわれてくるのです。
瞬きの詩人水野源三さんの詩を紹介します。
有り難う
物が言えない私は
有り難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも
心から ほほえむ
水野源三さんは、9才のとき、赤痢の高熱で全身マヒの体となり、言葉を話すこともできなくなりました。12才のとき初めて聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになりました。母の手助けで、50音図を瞬(まばた)きで指定する方法で、多くの詩を作りました。水野源三さんの信仰と、すなおで感謝と喜びに満ちた詩と、障がいのゆえの苦痛と戦って勝利した人生の姿に多くの人が感動しています。これからも折をみて、源三さんの詩を紹介していきたいです。
今日は、精神障がい者のコミュニティー「ベテルの家」について学びました。これまでの常識をくつがえすような理念に目が開かれた思いです。今日の学びについては、後日書かせていただきます。
つづく