
昨日は主人と霞ヶ浦水郷公園にウォーキングに行ってきました。写真は公園にある風車を後ろ側jから写したものです。サルビアの花壇のある正面より、色づいたガマの葉が茂っているところが気に入りました。
今日、教会では召天者記念礼拝が行われました。亡くなった方々の写真の映像を見て、故人を偲びました。わたしは父の写真を今回初めて出しました。やはりつらいですね。涙があふれてきました。
地上では2度と会うことができません。声も聞けないのです。でも天国で再会できるという希望があります。
牧師のS先生は神の約束を再確認して勇気を得ることが召天者記念礼拝の目的ですと言われました。
パウロは迫害され、自らの死が迫っていることを自覚しながら、テモテへ手紙を書き送っています。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているのです。(Ⅱテモテ4:7.8)
この聖書の言葉を読んだとき、パウロは自信に満ちた人なんだなあと思いました。わたしだったら死を前にしてこんなことは言えない。おそらく悔恨の気持ちでいっぱいになるんじゃないかなと考えていました。そして、わたしはとても義の栄冠を神さまから戴くことができないと思っていました。
でも、義の栄冠は、主を慕い、信頼している者にはだれにでも与えられると聞いて嬉しくなりました。
長寿をまっとうした人はいいとして、突然召されてしまった人、病と闘って若くして召された人、志半ばで亡くなった人……本人も、周囲の人も納得のいかない死だったとしても、『走るべき道のりを走り終えた』と言えるのだそうです。
どんなにもっと生きたいと願っても、人は自分の命を一秒も延ばすことができないのです。命は神さまの御手に握られているのですから。死が訪れたとき、それが突然のように感じても神さまの側からすれば、ご計画であったわけです。
S先生は、故人の写真を見て悲しみに浸っている人たちに向かって言われました。
わたしたちは、今生きているという事実のゆえに感謝しましょう。走り続けられます。成長できます。赦すこと、愛することができます。
わたしたちの前には走るべき道のりがあります。それは、たった一度だけの道のりです。人生の最後に振り返ったとき、どのような思いが沸いてくるでしょうか?微笑みながら振り返れたら幸いです。
微笑みながら振り返れたらいいですね。いつも死を意識して生きることによって、それが可能になるような気がしました。
涙が出ました
文香さんの気持ちも考えてみました
希望があるのは感謝なことですね
天国に行くまで父と会えないと思っていたのに、神さまは夢の中で会わせてくださったのですね。