恨み、憎しみをバネにして頑張って成功した人は少なからずいます。かつて自分を馬鹿にした人を見返してやろうと努力して何かをなし得た人もいます。でも、仮に賞をもらったり、社会的に認められたりしたとしても、恨みがモチベーションの場合、目的を達した後、空しさが襲ってくるのです。それは神さまが望まれることではないのですから。
わたし自身、『見返してやりたい』と思ったことがありました。
『自分をいじめた人を見返してやるために頑張る』といってきた方に手紙を書きました。
わたしが、いじめた人を見返すために作家を目指したのは中学3年の時でした。中2のときは、毎日死にたいと思っていたのですが、作家になりたいという目標を持ったために死にたいという思いから解放されたのですから、そういう意味では良かったのだと思います。
でも、間もなく挫折したのは、全く書けなくなってしまったからです。
書きたいテーマも見つからなくて、ぷっつり創作活動をやめてしまいました。
その後、キリストに出会って洗礼を受け、その2年後に結婚し、2人の子供が与えられました。育児が一段落したとき、子供や若者に神さまの愛を伝えるために童話や小説を書きたいという気持ちが沸き上がってきました。自分に与えられている自由な時間を書くことによって神さまにお捧げしたいと思ったのです。それで再び創作活動を始めたのですが、以前書いていたときと目的が全く違います。
以前はいじめていた人を見返すためでした。目的は有名な作家になることでした。
今回は、いじめていた人を見返すためではありません。有名な作家になることが目的ではなく、神さまの愛を伝えるためです。
中学生の時の気持ち――孤独と、どうしようもないほどの空しさ、自分の存在価値がわからず、死を願っていたことを思い出すことによって創作意欲がかきたてられます。
自分が天地万物を創造された神によって造られた者であること。造って下さった神は、わたしの罪を赦すためにひとり子イエスを十字架につけて下さるほどわたしを愛しておられるといいうこと。もしこのことを知っていたら、どれだけ嬉しかったか……と考えると、今を生きる子供たちにキリストを伝えたいという思いが沸き上がってきます。それが、創作の原点です。
自分の心の中を見ると、実に醜いものがあることに気づきます。いじめた人よりわたしのほうが大きい罪を持っていたのかもしれないと思います。心の中で呪ったり、恨んだりすることも罪なのですから、わたしはいままでどれだけ多くの罪を犯してきたでしょう。でも、それらの罪いっさいを赦すために十字架にかかってくださったイエス様のことを思うと、胸が熱くなります。
ですから、いまわたしは自分をいじめた人たち――消息もわからなくなっているその人たちが、どこかでキリストに出会い、キリストを信じる者になりますように祈っています。
キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(Ⅰヨハネ3:16)