8日に実家近くのお寺で行われた父の一周忌の法要に出かけ、1泊して帰ってきました。14名の親戚の方々が集まり、昼食を共にしながら久しぶりに従妹たちとゆっくり話ができました。
お経のあと、お坊さんが短く法話をして下さいました。
運命というものがあるということ、何かをなして功績を残しても、人はみな死んでしまうから残念だということ、しかし故人の築いた人間関係は残るという3つのことが語られました。
聞いていた人達は、皆うなずいて納得しているようすでした。
でも、この3つのことが真理だとしたら、人生とは、なんて空しいものなのでしょう。
人間、生まれながらにして運命が決まっていたら、意志や願いがあってもなくても、たどる道は同じということになります。
また、人それぞれの運命が偶然、あるいは星の動きや生年月日で決まるとしたら、どうしようもないという思いにとらわれます。
たとえば、癌を宣告されたとして、それが運命だと思ったとします。運命だから仕方ないとあきらめの心境になるのでしょうが、それはネガティブな受け止め方です。
わたしは、人生で起こるあらゆるできごとは、天地を造られた神さまがしてくださっていると考えているので、運命という考え方はしません。
癌になりましたが、それは神さまのなさる最善なのだとポジティブに受け止めています。神さまは、わたしに癌を与えることによって、栄光を表そうとされているのだと思うのです。
神さまは、わたしのことをとても愛して下さっていますから、悪いようにするはずがないのです。運命だったら、いくらこちらが訴えてもどうしようもないのですが、神さまは訴えを聴いて下さる方ですから、祈りによって訴えることができます。
そして、人格を持っておられる神さまがその訴えに応答して下さいます。祈りがすべてかなえられるわけではありませんが、聴いて下さるお方がいることが嬉しく、そのお方にすべてをお任せすれば間違えはないのです。
聖書には「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」と書かれています。
お坊さんの語られた何かをなして功績を残しても、人はみな死んでしまうから残念であるというのはもっともなことです。しかし、キリストを信じる者には永遠の命が与えられるのですから、クリスチャンは「残念」という思いを抱く必要がありません。
故人の築いた人間関係は残るというのはその通りです。でも永遠に残るわけではありません。何十年もたって、故人を知る人がみな召されてしまうときがくるからです。
聖書にはいつまでも残るものは信仰と希望と愛です。と書かれています。永遠に残るものをみつめて歩んでいきたいです。