
昨日無事に花火大会が終わったことを感謝します。怪我や事故のないようにと朝から何度も祈りました。息子たちは子供を置いて出かけていきましたが、主人とわたしは1歩も外に出ませんでした。(家に居ながら花火見物ができる特権をこの時ばかりは大いに感謝!)
解説を聞くためにケーブルテレビをつけていたら、6か月のヒックンがテレビをじっと見ていました。テレビより本物を見せた方がいいと思い、抱いてベランダから見せると、手足をバタバタさせて大喜び。ドーンと腹に響くような音もこわがりません。あまり長い時間見せてはいけないと思い、15分ぐらいで部屋に入ったのですが、夕べは興奮してなかなか寝なかったそうです。生まれて初めてみた花火をヒックンはどう感じたのでしょう。
今日は礼拝で聖餐式がありました。聖餐式とは、イエス・キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与え「パンは私のからだであり、杯は私の血による契約である」と言ったことを記念して、パンとぶどう液を会衆に分けるキリスト教の儀式です。キリストの十字架を思ってパンとぶどう液を戴きます。
土浦めぐみ教会では年に4回聖餐式を行っていますが、今年は、聖餐式のたびにその意味がメッセージの中で語られています。
1月に行われた聖餐礼拝では聖餐式は領収書のようなものであると語られました。(1/7のブログに書いています)
4月の聖餐礼拝では聖餐式は契約書のようなものであると語られました。
7月の聖餐礼拝では、聖餐式は宣言文のようなものであると語られました。(7/2のブログに書いています)
そして、今回は、聖餐式は神と誓約するようなものであると語られました。
1~3回目までは『神がわたしたちにしてくださったこと』ですが、今回は『わたしが神になすべきこと』です。
日本には木や石に神が宿るといった汎神論的な宗教風土があるので、日本人は神が人と契約をする、あるいは人が神に忠誠を誓うということを理解しにくいのだそうです。
確かに、八百万(やおよろず)の神がいると祖母から聞いて、小学生のころは、あっちの神さま、こっちの神さまとたくさん拝めばご利益があると思っていました。神さまは願いをかなえてくれるもの、反面バチをあてるものと、とらえていました。
でも、聖書に示されている神さまは、人格を持っておられ、約束される方なのです。
神さまの約束とは、キリストがわたしたちのために十字架にかかって死んでくださったことにより、わたしたちはキリストを信じるだけで罪が赦され、永遠の命が与えられるということです。
約束を信じないことは、約束している神を信じないことで、真理を否定することです。
神さまがわたしたちになしてくださったことは、ものすごいことです。1~3回の聖餐式の意味を振り返ると、神さまの愛がこれでもか、これでもかと迫ってきます。こんなに素晴らしいことをしてくださった神さまに何をなしたらいいのだろうか……と思います。何をしてもお返しをすることはとうていできません。
でも、神さまは「お返しをしなさい」とは言っておられません。
「あなただけを神とします」と誓約すること、ただそれだけを望んでおられるのです。
キリストの愛に迫られて「神さま、私はあなたを捨てて、ほかの神々に仕えることはしません。主イエスが私の救い主だからです。」と書かれた誓約文に署名しました。
私と私の家とは主に仕える(ヨシュア記24:15)
何を感じたのでしょうね
何もお返しに求めてはこない神様・・・。
だからこそ、尚更、主を愛する気持ちが
強く湧いてきますね。。。
出かけていたので、お返事が遅くなってしまいました。
命をかけて愛を示して下さった神さまに、とうていお返しをすることはできませんね。
わたしたちができることは、イエスさまの愛を伝えることですね。