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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「ぼくを探しに」を読んで

2008-01-05 17:08:14 | 読書
昨日は主人の実家に行ってきました。義父母、弟さん一家5人と我が家から3人、計10人が集まって楽しく語らいながら新年を祝いました。日にちの都合がつかずに今年は妹さん一家とは会えなくて残念でした。毎年お正月とお盆は、多いときで13人も集まっています。

近くの古本屋が閉店セールをやっていたので行ってきました。ヒックンのために絵本を10冊、姪のために児童書を3冊、母に文庫を2冊、自分には絵本を2冊買いました。
自分のために買った絵本は、どちらも以前読んだことのある本です。もう一度読んで感動を新たにしました。一冊を紹介します。


「ぼくを探しに(missing piece)」シルヴァスタイン作、倉橋由美子訳(講談社)


パックマンのような主人公が、自分には何かが足りないと思って、かけらを探しに旅に出ます。
欠けているところがあって、まん丸でないので早くころがれず、立ち止まってミミズとお話したり、花のにおいをかいだり、蝶がとまりにきたりします。
次々とかけらをみつけては、はめてみますが、なかなかあいません。とうとうぴったりのかけらを見つけて喜ぶのですが、最後にはかけらを置いて、再びかけら探しの旅を続けるというストーリーです。


作者が何を言おうとしているかわかりませんが、わたしなりに感じたことがあります。

人間はみな、“自分には何か足りないと思う”気持ちを持っているのではないでしょうか。なぜなら、人はみな神さまによって、神に似た姿として造られたからです。
似た姿というのは、同じとは異なります。神さまは完全なるお方ですが、人は不完全なのです。つまり、はじめから人はみな、何らかの欠けがあるのです。そのために空しさというものを持っているのです。

何が足りないのかわからなくて、自分探しの旅を続けるという人は多いのではないでしょうか。

この絵本では、主人公はせっかくぴったりはまるかけらを見つけたのに、そのかけらを手放してしまいます。からだが丸くなって、早く転がれるようになったのに、ミミズと話ができたり、花のにおいをかいだり、蝶がとまりにきたりしなくなり、歌をうたえなくなったからとかけらを置き、再びかけらを探す旅に出かけます。
このことは何を意味するのでしょう?


絵本ナビに何人かの感想が掲載されていたので読んでみると、

ぴったりだと思った人と結婚したけれど、離婚してしまったことを意味するのだと捉えている人もいます。
ぴったりの仕事を見つけて目的を達成ししたけれど空しくなったことを意味するのだと解釈する人もいます。
訳者の倉橋由美子さんは、あとがきに「それ(missing piece)が生まれたときから持っている自分の死であるらしい……」と書いておられます。


人は神さまによって欠けのある者として造られたことを考えると、ぴったり合った人だと思っても、その人も不完全なので欠けを完全に埋めることができないのだと思います。
どんなに愛し合っている夫婦でも、一緒にいても空しいと感じるときがあります。三浦綾子さんも光世さんと一緒にいるときにさえ空しさ感じたとその著書に書いておられます。

心にあいたすきまをぴったりと埋めることができるのは、創造者である神さまだけです。神さまは、人間にご自分のことを求めてほしいと思われたので、完全な形ではなく欠けのある形としてわたしたちを造られたのだと思うのです。
完全にされるのは、地上の生涯が終わって天国に移されたときです。だから、人間はmissing pieceを探し続ける旅人なのではないでしょうか。


また、この本の最初のページに、「だめな人とだめでない人のために」と書かれています。劣等感を持っている人とそうでない人のためにという意味だとわたしは考えました。
はたから見てどんなに才能溢れ、欠点など見当たらない人でも、必ず欠けがあります。でも、人と比較して、自分は優れているのだと優越感を持ったり、逆に自分はだめな人間だと劣等感を持つ人がいます。(わたしは後者の方でした)

その人達のために、人間はみんな欠けがあるんだよ。欠けがあっていいんだよ。いつかぴったり埋められる日がくるから、ゆっくり旅をすればいいんだよというメッセージを感じました。

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