「救われた者の最大の関心事」
クリスチャンの最大の関心事は、「神の御旨を行っているか、神に従っているか、神の栄光をあらわしているのか」ということです。救われる前は、自分をどのようにあらわし認めてもらうかという自己顕示、自分の願いをどのように達成しようかという自己達成、自分の欲望をいかに満足させるかという自己満足に生きていました。神の救いを受けたクリスチャンは、自分の存在の意義や目的がはっきりとわかりましたし、神によって心(霊)が満たさるので、自分中心から神に中心に存在や思いが変えられ移されている(価値観の変革)のです。きよめられる、きよめられ続ける、きよめが深くされるということは、このことの徹底であろうと思います。我力(自我)では到底、この関心事を行うことはできません。自我がきよめられ、内住キリストによってなされていくほかありません。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19~20)
クリスチャンの最大の関心事は、「神の御旨を行っているか、神に従っているか、神の栄光をあらわしているのか」ということです。救われる前は、自分をどのようにあらわし認めてもらうかという自己顕示、自分の願いをどのように達成しようかという自己達成、自分の欲望をいかに満足させるかという自己満足に生きていました。神の救いを受けたクリスチャンは、自分の存在の意義や目的がはっきりとわかりましたし、神によって心(霊)が満たさるので、自分中心から神に中心に存在や思いが変えられ移されている(価値観の変革)のです。きよめられる、きよめられ続ける、きよめが深くされるということは、このことの徹底であろうと思います。我力(自我)では到底、この関心事を行うことはできません。自我がきよめられ、内住キリストによってなされていくほかありません。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19~20)