「神のあわれみ」 マタイによる福音書18章21~35節
主イエスはペテロに言われました。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」(22節)
1万タラント(6000万デナリ)をゆるされた者が、60万分の一である100デナリをゆるすことができない、たとえ話を主イエスはなされました。
たとえ話のこの人のことを聞くと「なんていう人だ」と私達は思うでしょう。しかし、この者こそ私達の姿なのです。100デナリは決して少ない額ではありません。
小さい出来事ならゆるすでしょう。またクリスチャン以外の方なら小さい出来事でなくてもゆるすことでしょう。しかし、兄弟であるクリスチャンなのにこんなことを、そしてそれが小さい出来事でないならば、ゆるせない思いが心の奥に残るのではないでしょうか。
どうしたらゆるすことができるのでしょうか。人間の決心や努力ではゆるすことはできません。神の介入がそこになければ、そしてわたしのためのである十字架における主イエスの犠牲の愛を体験し、そこから流れるゆるしに身をひたさなければゆるしの恵みの世界は開かれません。
さらに言うならば、そのゆるしの世界に生き続けることです。彼は1万タラントゆるされたのです。しかし、門を出るとその恵みは続かず、その恵みに生きることをせず、彼から兄弟にゆるしは流れていなかったのです。
み言葉を聞き自らに体験するだけではなく、兄弟姉妹に流れ出る者でありたいのです。
「わたしがあわれんでやったように、あの仲間にもあわれんでやるべきではなかったか」(33節)
2012/1/22 説教者 杉本守