静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年01月22日 | 説教要約

「神のあわれみ」 マタイによる福音書18章21~35節

 主イエスはペテロに言われました。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」(22節)

 

 1万タラント(6000万デナリ)をゆるされた者が、60万分の一である100デナリをゆるすことができない、たとえ話を主イエスはなされました。

 たとえ話のこの人のことを聞くと「なんていう人だ」と私達は思うでしょう。しかし、この者こそ私達の姿なのです。100デナリは決して少ない額ではありません。

 小さい出来事ならゆるすでしょう。またクリスチャン以外の方なら小さい出来事でなくてもゆるすことでしょう。しかし、兄弟であるクリスチャンなのにこんなことを、そしてそれが小さい出来事でないならば、ゆるせない思いが心の奥に残るのではないでしょうか。

 

 どうしたらゆるすことができるのでしょうか。人間の決心や努力ではゆるすことはできません。神の介入がそこになければ、そしてわたしのためのである十字架における主イエスの犠牲の愛を体験し、そこから流れるゆるしに身をひたさなければゆるしの恵みの世界は開かれません。

 さらに言うならば、そのゆるしの世界に生き続けることです。彼は1万タラントゆるされたのです。しかし、門を出るとその恵みは続かず、その恵みに生きることをせず、彼から兄弟にゆるしは流れていなかったのです。

 

 み言葉を聞き自らに体験するだけではなく、兄弟姉妹に流れ出る者でありたいのです。

「わたしがあわれんでやったように、あの仲間にもあわれんでやるべきではなかったか」(33節)

 

2012/1/22 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年01月22日 | 天のマナ

 「永遠を生きる者とされているクリスチャン」 

 

 主イエスを信じる者は、罪赦され義とせられ、神の子とせられ、永遠の命を受けています。そして、すで

に永遠を生きています。永遠に生きる中で今は地上の歩みをしています。神からのこの地上での使命を終

えたならば、肉体の死という扉を開けて、神の国に入るのです。ですから、この地上での歩みは、永遠に生

きていることの最初の部分に過ぎません。

 

 このことを蝶の生涯に例える人もいます。最初は卵、そして幼虫(芋虫)です。地上の歩みは芋虫のようかも知れません。芋虫の体は地上用で、空に飛ぶためには空用の羽が必要です。しかし、空用の羽を持つためには、さなぎという時を経なければなりません。さなぎの時は、動かなくなり不自由な時かも知れません。けれども、それは空へ羽ばたくための扉に過ぎないのです。

 

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵の神は、しばらくの苦しみの後、

あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(ペテロ第一の手紙5章10節)

 

2012/1/22

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講壇の花

2012年01月22日 | 生花
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