「枝」45号を読んで
「枝」45号に引き込まれ、「あっ」という間に読んでしまいました。文章を読みながら、書いてくださった聖徒の方々の顔を浮かべ、悲しい思いを持たれた時には悲しみを、救われた喜びを持たれた時は「よかった。よかった」と喜びを、悩んだ箇所には悩みを、同じような思いを抱きました。
そして確認したことは、まさしく一つ一つの証しは生きた証しであり、「神様は今も生きておられて働き、一人一人に触れ、造り変え、満たしておられるという」ことでした。神から受けた恵みの分かち合いは、なんと素晴らしいでしょうか。恵みは分かち合うと倍々と膨らんでいきます。重荷は分かち合うと半分半分に減っていきます。これからも恵みも重荷も自分一人の内にしまい込まないで、分かち合いたいと願うのです。
そして、ある時には一人で、ある時にはセル・グループで、またある時には教会という共同体で主の恵みを受けたいのです。
「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)
「枝」45号に引き込まれ、「あっ」という間に読んでしまいました。文章を読みながら、書いてくださった聖徒の方々の顔を浮かべ、悲しい思いを持たれた時には悲しみを、救われた喜びを持たれた時は「よかった。よかった」と喜びを、悩んだ箇所には悩みを、同じような思いを抱きました。
そして確認したことは、まさしく一つ一つの証しは生きた証しであり、「神様は今も生きておられて働き、一人一人に触れ、造り変え、満たしておられるという」ことでした。神から受けた恵みの分かち合いは、なんと素晴らしいでしょうか。恵みは分かち合うと倍々と膨らんでいきます。重荷は分かち合うと半分半分に減っていきます。これからも恵みも重荷も自分一人の内にしまい込まないで、分かち合いたいと願うのです。
そして、ある時には一人で、ある時にはセル・グループで、またある時には教会という共同体で主の恵みを受けたいのです。
「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)