静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年04月17日 | 説教要約

「人類の罪を負われた主イエス」 マタイによる福音書27章45~56節

 今週は受難週です。本日は十字架につけられた主イエスの十字架の箇所から、主の言葉をいただきましょう。

Ⅰ 受苦される主イエス

 主イエスは、救い主としてこの世界にこられましたが、この世の人はイエスを救い主として受け入れず、茨の冠をかぶせ、嘲弄し、つばきをかけ、葦の棒で頭を叩き、十字架につけました。人々は救い主イエスを捨てたのでありました。命の危険をおかしてまでレスキューに来る者達は歓迎されるのが普通ですが、主イエスは救い主であり、永遠の救いを与えるために神の座を置いてきたのに、拒否されたのです。

 さらには、人に捨てられるだけではなく、父なる神に捨てられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスは十字架上で叫ばれました。100%父なる神に従い十字架まで従った主イエスです。その報いは父なる神に見捨てられることでした。なぜなら、主イエスは罪のない方でありましたが、人類の罪を負われて罪人と数えられたからです。罪を負われた主イエスを聖なる交わりから父なる神は切らざろう得ませんでした。まさしくこの叫びは、主イエスが私たちの罪を負われたことを証明し、主イエスが私たちの罪のゆえに父なる神に捨てられ、神の裁きを受けたことを証明しています。この苦しみの叫びのゆえに人類の罪の赦しが与えられたのです。

Ⅱ 救いをなされる主イエス

 主イエスは、十字架上で七つの言葉をのべました。第六番目は「すべてが終わった(完了した)」、七番目は「わが霊を御手に委ねます」であります。私たち人類の罪を負い、そして赦しをあたえる救いは成し遂げられたということと、なお父なる神に信頼し霊を委ねられた主イエスの言葉であります。この最後の言葉を残し、息を引き取られたのです。その時、神殿の幕が裂けたとあります。今まで至聖所の神の前に出ることが許されたのは、年に一度大祭司だけでありました。しかし、隔てていた幕が裂けたことは、誰でもキリストにあり、キリストの十字架の血をくぐっていくときに、いつでも神の前にでれると言うことであります。つまり、主イエスにありて、父なる神との関係が回復されたのです。この十字架こそ救いであります。

 この主イエスのすべての苦しみは、あなたの救いのためであります。

2011・4・17 説教者 杉本守

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