「福音を伝える者へ」 マルコによる福音書1章16~20節
救い主イエスの公の生涯は、教え、奇跡、癒し、悪霊の追放、十字架と復活のどれもが、神の国(神の義と愛の満たしによる支配)を到来させるものでありました。今日の聖書箇所は、弟子を召された内容ですが、このことも神の国の到来であります。この弟子達が用いられて、福音宣教がなされ、教会が立て挙げられていったのです。
Ⅰ 誰を弟子に選ばれたのか(選ばれる主イエス)
主イエスが、弟子として最初に選ばれたのは、田舎のただの漁師であるペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネでありました。なぜ彼らなのでしょうか。それは、ヨハネによる福音書1章のアンデレに見えるように、彼らはバプテスマのヨハネの弟子で、神を信じ畏れる者達でした。またコリント第一の手紙1章26~にありますように、神は無学のただ人を選び、この業は神の業であることを強調したからであります。
Ⅱ 何のために弟子を選ばれたのか(選びの目的)
選びの目的は、「人間をとる漁師にする」ことでありました。「人間をとる漁師」とは、救い主イエスによって神の国が到来したことを伝え、神から離れて迷い罪の中にいる人々を、神のもとに導く働きであります。
Ⅲ どうやって弟子となるのか(選びの目的を果たす方法)
イエスは、彼らに「従ってきなさい」と言われました。「人間をとる漁師」となるためには、イエスに従うことです。「従う」とは、イエスの後ろを歩むことです。この「後ろ」が大切です。神の御旨よりも自分の自分の思い優先することは、「後ろ」ではありません。聖書の御言葉を通して神の御心を知り、その御言葉を行うことが「後ろに従う」ことであります。そして、自らをささげていくことです。弟子達が網をささげたように。
主イエスを受け入れ、神の恵みが心に溢れ、この救いを主に従いながら伝える者とされたいのです。
2007年1月14日
説教者 杉本守牧師
救い主イエスの公の生涯は、教え、奇跡、癒し、悪霊の追放、十字架と復活のどれもが、神の国(神の義と愛の満たしによる支配)を到来させるものでありました。今日の聖書箇所は、弟子を召された内容ですが、このことも神の国の到来であります。この弟子達が用いられて、福音宣教がなされ、教会が立て挙げられていったのです。
Ⅰ 誰を弟子に選ばれたのか(選ばれる主イエス)
主イエスが、弟子として最初に選ばれたのは、田舎のただの漁師であるペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネでありました。なぜ彼らなのでしょうか。それは、ヨハネによる福音書1章のアンデレに見えるように、彼らはバプテスマのヨハネの弟子で、神を信じ畏れる者達でした。またコリント第一の手紙1章26~にありますように、神は無学のただ人を選び、この業は神の業であることを強調したからであります。
Ⅱ 何のために弟子を選ばれたのか(選びの目的)
選びの目的は、「人間をとる漁師にする」ことでありました。「人間をとる漁師」とは、救い主イエスによって神の国が到来したことを伝え、神から離れて迷い罪の中にいる人々を、神のもとに導く働きであります。
Ⅲ どうやって弟子となるのか(選びの目的を果たす方法)
イエスは、彼らに「従ってきなさい」と言われました。「人間をとる漁師」となるためには、イエスに従うことです。「従う」とは、イエスの後ろを歩むことです。この「後ろ」が大切です。神の御旨よりも自分の自分の思い優先することは、「後ろ」ではありません。聖書の御言葉を通して神の御心を知り、その御言葉を行うことが「後ろに従う」ことであります。そして、自らをささげていくことです。弟子達が網をささげたように。
主イエスを受け入れ、神の恵みが心に溢れ、この救いを主に従いながら伝える者とされたいのです。
2007年1月14日
説教者 杉本守牧師