静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年02月01日 | 説教要約
「揺り動かされない人生」 使徒行伝24章10~27節

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(28)

 大祭司アナニヤや長老らは、総督ペリクスにパウロを訴え論告します。続いてパウロが答弁します。この個所から主の言葉をいただきましょう。

 パウロは自分について、良い一市民であり、良い一信仰者であり、神に対しても人に対しても良心に責められることのないようにつとめてきたと語り、復活の主イエスを信じている信仰を表明いたします。それを聞いたペリクスは、裁判を延期しパウロを監禁しました。寛大に扱われましたが、なんと二年間も続きました。パウロの気持ちはローマに向けられていましたが、ここで足止めをされます。歯がゆい気持ちを抑えながら、パウロは神の時を待ち、そこでできることをなしていきました。教会へ手紙を書いたり、深遠な神学体系を整えたことでしょう。

 人間的には、業が進んでないように見えるような時も、神の御業は着実に進んでいるのです。とんとん拍子に行かないときも、主の御言葉に立ち、揺り動かされない人生を送っていきましょう。

2015/2/1 説教者 杉本守


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主日礼拝説教要約

2015年01月25日 | 説教要約
「神を信頼する者は揺るがない」 (詩篇112篇1~10節)

「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(7節)

 この詩篇112篇は、111篇と同じ詩人で、111篇の続篇とも言われています。111篇では、神の不思議な業をうたい、112篇では、神をおそれる人の幸いをうたっています。

Ⅰ 真の神をおそれ従う
 
 人はどんな時に何をおそれるのでしょうか。「子孫の恐れ」は、未来のことでありましょう。「繁栄と富の恐れ」は、日々の糧、もっと言うなら命、死のということでありましょう。「暗黒の恐れ」は、世界の暗黒だけではなく、自分の罪のことでありましょう。人は以上のことにおそれをいだきます。サタンは、私たちが動揺し信仰を失うように画策してきます。
 しかし、私たちクリスチャンは知っています。「真のおそれ」とは、主なる神をおそれるということです。本当におそれるべき方がわかれば、余計なおそれはなくなります。主イエスは、マタイ10:28で、天地の支配者であり、全能者であり、絶対的権威者であり、永遠を御手に治めている神をおそれることが、真のおそれであると言っています。

Ⅱ 真の神をおそれ従う者の幸い

 真の神をおそれ従う者は、子孫において強くなり、繁栄と富とはその家にあり、暗黒の中にを通ることがあっても、神の光を照らしてくださるのです。未来も死の問題も罪の問題も解決され、何が起こってもゆるがない者としてくださるのです。いえ、もうしてくださっているのです。真の神を土台としている者はなんと幸いでしょうか。

 真の神のみをおそれ、揺るがないクリスチャン生活を歩んでいきましょう。

2015.1.25 説教者 杉本守

 
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主日礼拝説教要約

2015年01月18日 | 説教要約
「使命を果たさせる神の深い守り」(使徒行伝23章11~24節)

「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒行伝23章11節)

 エルサレムにおいてパウロは、議会に引き出されます。そこで、パウロは復活された救い主イエスの福音を語りますが、復活を聞いたサドカイ派とパリサイ派で議会は混乱するのです。パウロは引き裂かれないように、千卒長によって兵営に連れて来られ、パウロの疲労困憊の長い一日が終わり静まります。その時に神はパウロに声をかけるのです。

Ⅰ 使命を果たす者を励ます神の言
 困難な中で、主はパウロに言葉をかけ、パウロは主の言葉に耳を傾け聞く、なんと幸いな関係でしょうか。主の言葉は、「しっかりせよ(勇気を出しなさい)、あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」というものでした。「しっかりせよ(勇気を出しなさい)」、あの長血を患った女性に、湖でこぎなやむ弟子たちに、最後の晩餐での弟子たちに語られた同じ言葉が語られ、パウロは、どんなに励まされ、神の御心であるこの使命を果たさせていただくことに確信をもったことでしょうか。どんな困難の中にあっても、み言葉は必ず成っていくのです。

Ⅱ 使命を果たす者を守る神の助け
 さらにパウロの使命を阻もうとする者たちは、勢いを増します。40人の者たちが、パウロを殺すまで食い飲みをしないと誓い合い、暗殺計画を企てます。しかし、神はその悪の罠から人間には想像もできない不思議な方法をもって、パウロを助けます。それは、その暗殺計画を逆手にとるようにして、パウロの甥を用いて、その情報を千卒長に知らせ、なんと歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人の合計470人の部隊に守らせてるのです。

 八方ふさがりに思える時こそ、主の言葉に耳を傾けみ言葉によって確認させていただき、主の不思議なわざをみさせていただこうではありませんか。

2015/1/18 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年01月11日 | 説教要約
「主を恐れることは知恵のはじめ」 詩篇111篇1~10節

「主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。」(10)

 この詩篇と次の112篇は、各行がヘブル語のアルファベット(アーレフ、ベイト・・・タウまでの22文字)で始まるいろは歌になっています。最初のハレルヤを抜かすと22行です。時代は、捕囚後のものではないかと言われています。

Ⅰ 主に感謝する

 1節の「正しい」とは、神によって義とされ、神との関係がまっすぐにされている者であります。そういう者たちが集まる場で神に感謝をささげています。神に感謝をささげる理由は、神の恵みは深く、神のみわざは偉大で栄光と威厳とに満ちているあるからです。具体的には、神の民との契約に基づき、食住を与え、贖うことさえもして下ったことです。


Ⅱ 主を恐れることの幸い
 出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放の出来事という救済の歴史を圧倒的な力をもって導く神。私たちが普段恐れている、おそれるべき人、おそれるべき出来事は、おそれることではなく、この世界を造り、この世界を治め、この世界を導き、この世界のすべてを御手の中に治めているこの真の神をおそれることこそ、知恵のはじめであります。これなくしては、どんなに一生懸命であったとしても暗中模索でしかありません。すべての源はこの主なる神なのです。

 ですから、この真の神をおそれる時に知恵を得、しっかりとした歩みができるのです。

2015/1/11 説教者 杉本守

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主日礼拝説教要約

2015年01月04日 | 説教要約
「イエスの証人であるクリスチャン」使徒行伝22章1~21節

 「それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人になるためである。」(使徒行伝22章15節)

 
 パウロが三回の伝道旅行を終え、エルサレム教会にいた時、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンは、異邦人への福音とパウロの異邦人伝道を、先のエルサレム会議でも承認したように、受け入れていましたが、(使徒21:20)5万人ユダヤ人クリスチャンたちの中には、まだ律法に熱心なものもいました。パウロらが律法を軽んじていると誤解する者もいました。また、アジヤでパウロを迫害していたユダヤ人がエルサレムに来て(21:27)群衆を扇動し、パウロを迫害したのです。その中でパウロは、自分の救いの証を含めて、イエスの福音を語ります。

Ⅰ 証人とは
  
 辞書で調べますと、「証人」とは、「ある事実を証明する人、あることを証明するために事実を述べる人」とありました。自分が体験したことや見聞きした事実を語るのが証人です。自分が体験しなかったり、見聞きしなかった出来事は証言できません。逆に体験していないのに、見聞きしていないのに証言するならば、それは偽証人となります。さらに言うならば、体験したり見聞きしたのに黙っているなら、その人は証人としての責任を果たしていません。

Ⅱ イエスの証人であるクリスチャン

 私たちクリスチャンは、主イエスが救い主であることを見聞きし信じ、救いを体験しているイエスの証人であります。私たちの務めはなんでしょうか。それは、「人々にイエスは救い主であると証言すること」です。黙っていては、証人としての務めを果たしていません。どんな状況にあっても、ここぞという時には、はっきりと信仰を表明し、「イエスこそ主である」とパウロのように証言いたしましょう。

 私たちは、確かに救い主イエスの救いを体験した証人であるのですから。

2015/1/4 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2015年01月01日 | 説教要約
「先に救われた者の責任を果たす」 ローマ10:9~17

「聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして聞くことがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。」(14,15)

  
 ハレルヤ!新年の喜びを申し上げます。今年の教会に与えられたみ言葉は上記です。

Ⅰ 救いの目的

 神の救いの目的は、キリストの十字架により私たちの罪を赦し、義とし、神の子とし、永遠の命を与えるだけにとどまらず、私たちをきよめて、私たちを通して神の栄光が豊かにあらすためであります。救った者たちを集め教会を形成させ、宣教へとみわざを進めるためです。私たちは、この目的に従い歩んだ先人の信仰の宣教によって、福音を聞くことができましたことはなんと幸いでしょうか。

Ⅱ 救われた者の責任
 人間の最初の罪は、アダムとエバにみる高慢と責任転嫁の罪でありました。神の言葉に従わず自らの思いを優先し、その後、罪を指摘された時に責任をとりませんでした。その罪の性質が私たちの内に、この宣教するということにも潜んでいるのではないでしょうか。「宣べ伝えなさい」との言葉に従わず主の恵みを独り占めにし、責められたら、今ではないとか私ではなくあの人がすればいいとか、責任転嫁しているのではないでしょうか。
 「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」です。唯一の救いの道を体験し知っている私たちが口を閉ざしたらどうなるのでしょうか。

 先に救われた者の責任として、任務として、伝える一年であらしていただきたいのです。もちろん、自分の力ではできません。聖霊に満たされて、聖霊によってなしていただきましょう。

2015/1/1 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年12月28日 | 説教要約
 「主の恵みを引き継ぐ」 詩篇69篇29~36節  


「神はシオンを救い、ユダの町々を建て直されるからである。そのしもべらはそこに住んでこれを所有し、そのしのべらの子孫はこれを継ぎ、み名を愛する者はその中に住むであろう。」(35~36)

 2014年も最後の礼拝となりました。五十数回の礼拝を愛する神の家族であります兄弟姉妹とささげることができまして感謝いたします。また、新年の御言葉を信じて一年歩ませていただきまして感謝いたします。新年に与えられたみ言葉をもう一度思い起こしましょう。

Ⅰ 主の言葉が与えられる幸い

 今年の教会のみ言葉は、詩篇69篇36節でした。この詩人は、神への叫びの中で神の御心を知ります。神がシオンを救い、ユダの町を建て直し、しもべらを住まわせ、子々孫々がこれを継ぐということでした。トンネルのような困難さの中でみさせられたものでした。あなただけではない、あなたの子孫、神の民を主が立て直し祝福するのです。私たちもトンネルの中を歩むようなことがありますが、創始者であり、完成者なるイエスがいてくださいます。トンネルはすでにイエスが通りぶち抜いてくださっているものなのです。

Ⅱ 主のみ言葉を体験する幸い

 どのようにしたら主のこのみ言葉を体験していけるのでしょうか。それは人間的な知識や経験、努力や財によってではありません。それは、神の言葉を信じる信仰よってであります。会堂返済もみ言葉を信じる信仰によって、ここまで来ることができました。次世代の信仰者が与えられることにおいても、み言葉をしっかり信じて体験させていただこうではありませんか。

 今年も多くの人がこの教会堂の門をくぐりました。幼児、小学生~青年、大人までです。私たちは福音を伝えてきました。多くの実を結ぶのを見たかといいますと、まだ見ていませんが、今もこの御言葉が必ず成されるとい確信は変わらず、主への信仰は深まる一方であります。今後もこのみ言葉を通して歩んでいきましょう。

2014/12/28 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年12月21日 | 説教要約
「救い主を心に迎える」 ルカによる福音書2章1~7節

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(新改訳:ピリピ人への手紙2章6~8節)

Ⅰ 救い主を迎えることができない忙しさ

「客間には彼らのいる余地がなかった」とあります。余地がないほど他の客でいっぱいだったのです。私たちの心はどうでしょうか? 現代人は忙しい。情報が氾濫していて、真理が埋もれてしまっているのです。そして、表面的な目に見える現象の多忙さで自らをごまかしてしまって、確かなものを逃しています。昔も今も同じであります。

Ⅱ 救い主を迎える心

 真理、確かなものとは。それは救い主イエスであります。どんなに時が過ぎようとも状況が変わろうとも、変わらない唯一の方です。その方が、この朝、今あなたの心の戸を叩いています。馬小屋のような心であっても入ってきてくださるのです。

 心の戸をあけて、救い主イエスに入っていただきましょう。

2015.12.21 説教 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年12月14日 | 説教要約
「わたしたちと共にいて下さる神」 マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(23)

Ⅰ 夫婦の絆を強める神
 
 ヨセフは、夢の中で主の使いに語られ、マリアが宿した子は、救い主で聖霊によることを受聞き、信仰を持って受け止めます。人間的にみたら大きな試練で、夫婦の絆が壊されるように思える出来事も、神には深い知恵があり、この素晴らしい出来事を通して、さらに夫婦の絆を強めるのです。

Ⅱ 共にいます神
 マタイによる福音書は、インマヌエルの神で始まります。そして終わりは、「見よ、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいるのである」です。主イエスは、私たちと共にいたくて仕方がないのです。こんな小さな罪深い私たちとです。なんとありがたいことでしょうか。
こんなに思われているなんて。

 この神と共に歩ませていただきましょう。

2014.12.14 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年12月07日 | 説教要約
「神に恵まされた者」 ルカによる福音書1章26~38節

「御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。』」(28)


Ⅰ 神の偉大なわざ
  神がなされるわざはいつも偉大で人間の想像を遥かに越えるものであります。神が救い主をこの世界に送られる時もそれはユニークでありました。両親のもと、父と母の人間的な営みではなく、聖霊なる神が、処女マリヤの胎に子なる神救い主イエスを宿らせるというものでありました。全くもってユニークであり、神のみわざ以外にありません。神の使いの告知は、処女マリヤが身ごもって男の子を産むこと、イエス(主は救い)と名づけよ、その子は救い主であるというものでした。しかし、マリヤは非常に驚き戸惑い恐れます。どうして処女である自分が男の子を身ごもれるのか、名前もイエスをと名づけること、その子が神の子であり救い主であるということ、受け入れがたいものでした。世界中の誰よりも、マリヤ本人が受け入れることができない内容であったからです。

Ⅱ 信じ従う者
 けれども、マリヤはその数十秒後には、このことを信じ受け入れる告白をしています。どうしてでしょうか?この出来事の出所は神であることを知り、その神がなされていること、マリヤが信じていた神は全能の神であるからでありました。聖霊なる神により特別な方法をもって、神は救い主を送りなさったことを受け留めたのでありました。マリヤは、「神にはなんでもできないことがない」との神の言葉に立ったのでした。わたしは、「主のはしため(僕)です。お言葉通りこの身になりますように」との言葉に、彼女の信仰があふれ出ています。確信と平安に満たされた彼女は、救い主を送ってくだった神をほめたたえ、救い主の母とされたことを喜んで賛美をささげました。

 マリヤのように信仰をいただき、主の救いをさらに受けていきたいのです。

2014.12.7 説教者 杉本守
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