中学生の頃に秋田書店などから出されていた戦記を好んで読んでおりまして、最近になって極楽息子(大)が坂井三郎空戦記などを読んでいるのに触発されて、「海の戦記」シリーズ5冊をまとめ買いしました。最初は長門からです。なぜ3巻からかと言えば、1巻である吉田俊雄さんの大和は子供用の本で読んだことがあるので、馴染みのない本から始めようと思ったからです。
作者の今官一(こんかんいち)さんはネットの情報によれば太宰治と親交の深かった東北出身の作家。1956年に「壁の花」で直木賞を受賞しています。どちらかと言えば純文学系の人なので、直木賞受賞作としてはやや異色だと評されていました。若い頃から文学活動に没頭しており、クリスチャンとして聖書に通じ、35歳になってから召集されて補充兵として戦地へ、という異色の経歴の兵で、本書も戦記らしくない戦記です。
著者が何度も言い訳しているように、兵員としては未熟でろくに戦力にならないような老兵(他の兵と比較して)が、戦争の全体像も見えないまま右往左往して、いつの間にか死地を潜り抜けて帰還した記録と言ったらいいでしょうか。もちろん自ら記録したノートを題材にしているのですが、何せ従軍経験が1年しかない人です。1回の出撃によるノートが穴だらけだとしても、経験のある軍人なら「見てないけど左舷の敵はここから接近して、こういう戦闘だったに違いない」と埋められるものを、繕いようがないのですね。小説なら面白く書いてしまえばいいのですが、戦記ではそうはいかない。事実の圧倒的な重みこそ記録文学の魅力なのですから。
穴だらけの記録を戦記として纏め上げるにはかなりの取材が必要なのでしょうが、官さんはこの面がかなり淡白で、悪く言えば最初から放棄しているような印象があります。肝心な部分は他の本からの丸々の抜書きが多く、しかも同じ「海の戦記」シリーズからの抜書きが多いのはちょっと問題でしょう。一緒に読んでいる読者が多いのですから。残念ながらこの引用というには丸パクリの部分がなければ、戦場の緊迫感がほとんど伝わらない気がします。こんな人に戦記書かせちゃ駄目でしょう。
兵士としては高齢でろくに訓練も受けずに最前線に配属され、周りの古参兵は使えない補充兵など相手にせずに死力を尽くして戦い、そして次々に死んで行く。目の前で戦闘が行われているにもかかわらず本人にとっては遠い戦争だった感じがなきにしもあらずで、今さんがやり場のない疎外感を抱いて戦闘に臨んでいるのがうかがわれます。
今さんの文章も純文学にはいいんでしょうが、戦記として歯切れが悪く、記録の不備や軍人になり切れない自分に対する言い訳ばかりが目立ち、軍人らしい一種の高揚感や戦友あるいは軍艦との連帯感がほとんどないんですね。対極的に後日談では急に文章が生き生きとしてくるのですが、今度は戦争と関係のない文化人との交流の話になって、この1冊を戦記と呼ぶにはかなり抵抗を持ちました。文字通りの戦記が読みたい人にはお薦めしません。