
井上靖の大陸物を2つ。「天平の甍(いらか)」は映画にもなった晩年の作品。遣唐使を描いていますが、井上作品によくあるように、単なる英雄賛美じゃなくて、むしろ国家エリートになれなかった留学生の苦闘と鑑真の偉業を並べて書いています。この辺になると、「闘牛」などの脂ぎった精力的な人物描写が影を潜め、執念の人である鑑真でさえも淡々と描かれています。留学僧としての半生を写経に費やし、その大量の写経と共に海の藻屑となった老僧など、国家的イベントの裏で、映画の主題歌にもあったように「名もなき星」として消えて行った人々への、静かな哀悼の意が込められているのでしょう。
これに比べると「敦煌(とんこう)」の趙行徳は、長い自分探しの命を懸けた年月の末に、最後になって生きる意味を見出します。偶然に偶然が重なり、滅び行く敦煌の寺院に蓄えられた貴重な経典は秘蔵されて、数百年後に人類の宝として脚光を浴びる日を迎えます。さすがに話が出来過ぎている感はありますが、こんな偶然でもなければ、貴重な資料なんか残らないでしょうね。私は「闘牛」や「氷壁」から入ったので、「敦煌」の方が「天平の甍」ほど人物もストーリーも枯れてなくて、こちらの方が井上さんらしいなという気がします。

フィンランドデザイン展に行って来ました。

館内は撮影禁止ですが、ところどころ撮影可能なスポットがあります。シンプルで飽きの来ないデザインを長く使う傾向があり、多様ではありますが共通するものがあるようにも思われます。

予備知識はほとんどありません。マリメッコの名前ぐらいは聞いたことがあります。

こんな大胆なデザインの椅子。映画などでもよく使われているそうです。椅子の展示は撮影禁止地区にもたくさんあって、そちらは高い木工技術を生かした長く使えそうなもの。成長が遅くて硬いフィンランド材を大胆に曲げて、美しい曲線を作り出す技法が際立っています。

これも一見何かわかりませんが椅子。これだけデザインしても実用性をないがしろにしないところが北欧流。

ムーミンのタペストリー。世界中で人気のあるトーベ・ヤンソンさんのキャラクター。これとは違いますが、有名なアラビア製陶のムーミンシリーズは長らく作られていなかったものを、たまたま名前が同じトーベ・スロッテさんがヤンソンさんの許可をもらって引き継いだそうです。

犯罪を計画して、良心との葛藤に思い悩む。あるいは実行してから罪の意識に苦しむ。そういう主人公は今でこそ珍しくないでしょうが、そのような人物から誰でもラスコーリニコフを連想するように、この「罪と罰」こそが嚆矢です。貧しい自分が救われるため、ナポレオンを重ね合わせて殺人を正当化してみたものの、所詮は救国の志があるわけでもなく、他人を踏みつけてまで這い上がるだけの動機を持ち得ない。金貸しの老婆を死なせたことは特に間違っているとも思わないが、この程度の良心の呵責に耐えられない自分が腹立たしい。
こんな身勝手な論理で殺人を犯す男の目で見たペテルブルクの社会はもちろん歪んでいるのですが、家族を貧苦に突き落としながら酒を飲み続けるマルメラードフ、自分から貴族の身分を捨てながら過去のプライドにしがみ付くその妻、息子を盲目的に愛しながら現実の残酷さとの解離に耐え切れず心を病むラスコーリニコフの母親、美しく気立てのいいラスコーリニコフの妹を巡る欲望むき出しの男たちなど、救われない人たちが描く底辺社会の一面また一面は、ラスコーリニコフをここまで追い込んだ過酷な帝政ロシアの貧困階級の生活を浮き彫りにします。
最後は罪の意識と自分の再生の希望により自首するラスコーリニコフは、人間的にはナターシャや家族、ラズミーヒンの揺るがない愛情により救われたことになっているのですが、経済的には、自殺したスヴィドリガイロフの金(元々はスヴィドリガイロフが資産家のマルファ・ペトローヴナを誑し込んで手に入れた金)がなければ、流刑になるラスコーリニコフ自身はともかく、母親と妹の生活は成り立たないし、ナターシャが娼婦から足を洗ってシベリアに付いていくこともできないし、ナターシャの異母弟妹も救われず、ラズミーヒンが大学に戻ることもできないわけです。皮肉なことですが、ここは自らが何度も破産して貧苦を舐めたドストエフスキーらしく、決して甘い話にはしていません。
貧乏を描かせると巧いのが日本人、と聞いたことがあります。「放浪記」「一握の砂・悲しき玩具」「路傍の石」「無能の人」など、貧乏が色濃く影を落とす文学作品は簡単に挙げられますが、帝政ロシア末期の貧乏は実に重くて読み応えがあります。内容はロシア文学の代表だからいいとして、日本語訳に登場人物の一覧(ロシア文学だから愛称も)がないのは新潮文庫の手抜きではないでしょうか。せっかくの文庫なのに、ネットで人物を参照しながら読めとでも?

石川達三全集に入っていなかったので、別に手に入れました。特に反戦の意図を持って書かれたわけではなく、当初の目的は取材に忠実な記録的文学であり、当時大挙して大陸に乗り込んでいた文学者たちの記事と目的は同じでした。それが「蒼氓(そうぼう)」の石川達三の手に掛かると、戦争の狂気を抉り出す例のない小説になるわけです。
作者が中国に滞在したのは短期であり、それも南京占領の後でした。だから一番凄惨であった南京攻略戦の取材は十分ではなく、関係者への取材や聞いた話、他の資料などで埋めたはずです。敵味方と非戦闘員が入り乱れての陰惨なエピソードはどれも現実感があり、当時はそのような残虐行為も隠すことなく堂々と語られていたのでしょう。炊事兵は連隊長のおかず用の砂糖を舐めてしまった中国人を処刑し、従軍僧は敵味方を包むはずの仏教の教えをそっちのけに、自らシャベルを振るって敵兵を殴り殺す。正規軍同士の戦闘が凄まじいのは当然として、有無を言わさぬ徴用や徴発、虐待などまさに戦場の狂気ですが、その狂気に同化し得なかった作者の目を通して小説になったとき、日本にあってはごく普通の良識ある社会人だった兵士たちが、それぞれの胸中で戦場の現実と良心の折り合いを付けざるを得なかった過程が見えてきます。
ここでは無教養で感受性の鈍かった「笠原伍長」が自然と兵士になり切れた良い兵であり、生への執着や命の価値に対する疑問を解決できず、矛盾の重さに耐えられなくなり却って日本人相手の凶行に及ぶ「近藤一等兵」が悪い兵ということになります。良い兵も悪い兵も戦争の渦に巻き込まれて殺し、殺され、ひとつの戦闘が終われば少しばかりの休暇の後に、糧食3日分で、あるいはそれも支給されずに、明日をも知れぬ次の戦場に送られます。小説という形式ではありますが、兵士の心情表現はむしろ克明な戦記より鮮明であり、当時の軍部が敵視したのも無理からぬことです。

芥川賞の第1回受賞作「蒼氓(そうぼう)」では、食えなくなってブラジル移民を決めた農民たちの、それこそ地を這うような生活ぶりが実にリアルで圧倒されます。一等客との天と地のような格差はもちろん、外人客、一等客、船員、ボーイ、移民という厳然たる序列があって、しかも移民はブローカーなどにも食い物にされる実に弱い立場です。移民船の食事は(極めて粗末ながら)支給されるので飢えはないとして、男女混合の蚕棚のようなベッド、揺れる船、赤道直下の猛暑、不衛生、病気。国を捨てて見知らぬ土地に移住する苦痛よりも、まずは日々の苦痛に耐え、「ブラジルに着くまで何としても生きていなければならん」という心情は悲痛です。
これだけ詳細な記載ができるのは、石川さん自身が移民船の助監督として働いた経験があったからだそうです。それにしては本作に登場する助監督の小水は酷い役回りですね。安請け合いをしては「はははは」と誤魔化すいかにもだらしない若造として描かれており、移民の女性に手を出し、上司である監督からも見限られて、最後は親しくなった移民との縁も切れ、一人サントスの収容所に残る顛末は寂しいものです。終始移民を見下している、やり手の村松監督や、やはり管理意識の強い船の事務長もキャラクターがしっかり出ており、いい演技をしているなと思います。
このような酷い状況で、それでもどこか希望や明るさを捨てない田舎者の移民に、作者の温かい眼差しが注がれます。どんな境遇でも従うことしか知らぬ夏は、弟の言いなりになって故郷の求婚者を捨てて移民となり、船では小水助監督の言いなりになり、最終的には偽装結婚の相手である勝治の言いなりになってブラジルの農園に骨を埋める決意をします。弟の孫市は強引に姉を移民に誘い込み、ブラジルでの大成功を夢見ますが、実際の状況がわかってくるにつれて夢が破れ、姉に済まない思いを募らせます。そんな中で、再渡航の人や農園の先住日本人たちは、「ブラジルで成功しようと思ってる人は駄目だ。金を持ってる人もだめだ。でも貧乏でいいと思えば気楽なものさ。3年我慢すれば食っていくのは楽だ。」と新参者を受け入れてくれます。これが移民にとって何よりの救いに映ります。
「ブラジル移民に夢などないし、大成功など今時ない。猛獣も病気もあるし、働いて寝るだけの毎日だが、それに馴染んでしまえば農園がすなわち世界だ。何も余計なことは気にしなくて済む。」
東北の貧農であった佐藤家と門馬家は、こうして素直に現実を受け入れ、慎ましい暮らしができれば十分と粗末な小屋に落ち着きます。実際はブラジル移民もそこまで単純ではなく、コーヒー価格などの海外情勢にも左右され、とりわけ戦時には太平洋戦争を廻って「勝ち組」と「負け組」の対立など、深刻な問題はあったのですが、この作品ではささやかながら希望の持てる結末になっています。

永井荷風集の次は井上靖集に入っています。非常に多作の人なので、有名な「天平の甍」(てんぴょうのいらか)などが抜けているのは惜しいところですが、出世作の「闘牛」が収録されており、足跡を辿るには好適です。
井上靖が新聞記者出身の作家であることは知られていますが、「闘牛」に出てくる山師的な新聞編集長の津上が、井上さん自身なのでしょうかね。小説と言うより新聞記事のような「漆胡樽」や「異域の人」あたりを読むと、井上さんが記事の体裁にもかかわらず話を「盛る」人のように見え、それが新聞記者とも興行師とも区別しがたい津上のイメージと重なってきます。この辺はネットの普及で明らかになってきた、読者を誘導しようという作為的報道が実に多い現代の報道問題とだぶって見えるのですが、いかがなものでしょうか。
この全集で読み応えのあるのはやはり「氷壁」ですね。井上さん自身は、気象庁で勤務していた新田次郎などとは異なり、山の専門家や登山家と言うほどの経験はなかったそうですが、熱心な取材によりそれを感じさせないだけの描写がなされており、「氷壁」を読んで山に登りたくなったというファンも多いそうです。後の西域物にも生かされた取材能力の高さが光ります。

全集と言いつつ、「あめりか物語」「ふらんす物語」が落ちていて帰国後の作品ばかりなので、ひたすら芸者や女給、私娼、置屋の話が続きます。荷風先生、よくここまでと思うぐらい精力的ですね。昭和7,8年ごろの銀座が一番女給や私娼の活動が活発で乱れていたとありますが、太平洋戦争に突入するまで10年もない時代に、世の中が実は戦争一色でもなかったという貴重な生活史でもあります。「つゆのあとさき」によれば、少なくともカフェは繁盛していたし、今のアイドルみたいな売れっ子の女給が上客を取り合い、そんな風俗を面白おかしく新聞が記事にしています。もちろん小説ですが、現実を踏まえたものでしょう。綿密な取材と言うか、荷風のアクティビティの高さには脱帽します。ただ荷風はアメリカとの戦争にはならないと予想していたようです。
晩年の「濹東(ぼくとう)綺譚」ではさすがに枯れてきたのか時勢を気にしてか描写が控えめになり、古きよき時代の名残を、あまり繁盛していない下町に探し懐古する情緒が前に出てきます。少なくとも「おかめ笹」あたりに比べると淡白で、読者を選ばない間口の広さを感じます。ただこの全集の編者は「腕くらべ」を荷風作品の代表として読ませたいのでしょうね。芸者同士の腕比べ、芸者と客との腕比べ、客と客との腕比べ、芸者と世間との腕比べ。いろんな腕比べが連想されます。なかなか含蓄のある題名です。芸者置屋での毎日が題材なので、最後まで筋らしい筋が掴めず、「どうやって終わるつもりかな」と心配してるところに、事件が終わってストンと切り落とされたように終幕を迎えます。これは他の作品にも見られる傾向です。脂ぎった「腕くらべ」や「つゆのあとさき」の後に「濹東(ぼくとう)綺譚」を読むと、人並みの家庭を持てず孤独な晩年を送った荷風が、時代の移り変わりと共に過ぎ去った若き日のことをさぞ哀切に思い起こしているだろうと感じられます。話の舞台である隅田川の東側には、今でも当時の趣を残す町並みが残っているらしいので、尋ねてみるのも一興かもしれません。
今の時代にとても荷風のような生き方はできませんし、当時としても常軌を逸した生き方だとは思いますが、自分で体験できない別世界を味わうという点で小説の魅力は十分。全集企画時は小山内薫と2人で1冊という話だったらしいですが、荷風だけで1冊取れたことはとても良かったです。

プロレタリア文学者の佐多稲子の作品集に入りました。元々小説家を志した人ではなくて、貧困の中で自身が児童労働や低賃金労働を経験し、カフェの女給として働く中で社会運動家や文筆家と知己を得て文章を書き始めたのが発端だそうです。プロレタリア文学も当初は知識階級の運動だったのが、彼女のような本当の無産者が表現活動を始めることで厚みが出てきます。自身の体験である「キャラメル工場から」はなかなかユニークです。ただ、体験したのが十代前半だし、期間も短いので労働者全体の苦しみとか時代背景とか、記載に奥行きが欠けるのは仕方がありません。
「牡丹のある家」は結核で工場を辞め、田舎に帰った娘が自分の居場所がないのを感じ、悲壮な決意で町に戻る話。都会も田舎も豊かな人は一握りで、多くの労働者は十分な教育も受けられず、病気の療養もできずに働かざるを得ませんでした。自分が結核に感染したり、家族に病人が出たりすれば尚更です。こんな時代には軍人になって手柄を挙げてやろう、と考える若者が多くいても不思議ではありません。
長編の「くれない」は文学者同士の夫婦の軋轢を書いた物ですが、何が起きても労働運動の目線で「生活改善を」「労働者と連帯を」とタテマエ論で思考する夫婦がうまくいくはずがないですね。夫婦の間柄で、どっちが負ける、勝つとか競い合ってるのはともかく、負けたのを相手のせいにしているようでは安らぎなどないと思います。マルクス主義文学者の佐々木基一の解説ではこれを「名作」と評してあるのですが、ちょっと一般の読書家には理解しにくいんじゃないでしょうか。反体制文学の担い手としての苦労は伝わるとしても、家庭内のいざこざは自ら蒔いた種みたいな印象を抱かざるを得ず、佐多稲子という人はそもそも家庭生活に向かない人だったんじゃないかと思うばかり。家事は得意だったようですが、自分の家庭より政治活動を重視する人の家庭が荒れるのは仕方がないでしょう。
「くれない」では文章が整理されてなくて、小説としてもやや読み辛いです。例えば、「生活の綾の陰影と、人の組み合わせのお互いに作用する影響は大きいのである。負ける、勝つ、という言葉でお互いの生活の根本を主張し合いながら、仕事に熱している男を元気づける程の拡がった余裕もないくせに、甘くない目で水を打っかけることは鋭く、そして性格の強さでじりじりに押しっこをしている。」漱石あたりなら同じ内容をさらっと書くだろうと考えると、これはどう見ても悪文だよね。こんな文章が何回も繰り返し出てきます。もう少し後の作品では小説らしくなるのかな?
佐多さんは小説家としてのキャリアが非常に長い人で、この全集が出てからも多数の作品があるので、そちらの方が完成度は高いかもしれません。1930年頃のプロレタリア文学活動で名を馳せた人ではありますが、その枠組みだけで捉えることはできないと思います。今年のセンター試験国語では第2問に「三等車」の全文が使われています。こちらでは「くれない」のかな釘流のような引っ掛かる文体ではなく、もっとこなれています。佐多稲子を読んだことのある受験生は少ないでしょうが、これに関しては文章も問題も平易なので、平均点は高かったことと思います。

今更ですが、23年ぶりの連載再開が話題になっていたので、目を通しておこうと思いました。当時の筑豊の自然描写や炭鉱の生活など、背景はとても魅力的です。主人公の信介は私の親父と同年の昭和10年生まれなので、今年は81歳。とても青春という年齢ではないですし、来年は85歳の五木さんが連載再開で「青春」をどう描くのかは不安も感じますが、まあそっちは気にしないことにします。
信介が中学高校の時分から、性的なイベントがやたらに多いですね。五木さんの北欧を舞台にする短編を読んだ時から同じ感想を抱きましたが、本筋にあまり関係のない「濡れ場」が頻回に入ってきて、話の筋をわかりにくくしているような気がしますし、読みにくいです。それだけ執着する割には性描写が詳細でもしつこくもない、というのは五木さんが「性の目覚め」を青春の重要な要素に数えてはいるものの、それが第一だとは思ってないからでしょう。そもそも、濡れ場もあれだけ回数が多いと目立たないもの。だからこれは連載小説における一種の読者サービスなのかも知れません。何せ連載が「週刊現代」ですからね。しかし最初から大著を読み通す気で読んでいる読者には余計だと感じます。
小説じゃなくて漫画ですが、こういうスタイルの青春物として、長谷川法世「博多っ子純情」を連想しました。性の目覚めに悩む主人公と、一途な彼女、荒くれの男たち、と設定にもかなり共通点があります。ヤンチャで性的に早熟な青年と、性のはけ口にされるなどして、あまり大事にされてないのに粛々と従う、熱い愛情を秘めた女性。それからサービス精神満点で性の手ほどきをしてくれる年上の女性。こういうパターンが九州のあの辺ではある種理想の青春像だったのでしょうか。他の地域では、これだけ「あけすけ」だと反発が強くなるように思います。「青春の門」「博多っ子純情」共に全国で人気を博した作品ですが、全国の読者も、あれは筑豊あるいは博多という独特の風土あってのことと思って、別の世界を覗くような興味をそそられて愛読したのだと思います。私は漫画の方はともかく、五木さんの筆力なら、濡れ場よりも書くべきことが他にあったと思いますけどね。

てんやわんやとは、つまり戦後の混乱期です。当時の出口のない混乱ぶりや葛藤をよく表しているということで流行語になり、漫才コンビの名前にも使われました。昭和40年代には「獅子てんや・瀬戸わんや」は毎日のようにテレビで見ましたので、小説のことは知りませんでしたが「てんやわんや」の言葉は鮮明に覚えています。
戦後の混乱期に浮き沈みしながら生き方を模索する姿を描いた、ということでは先日読んだ大佛次郎「帰郷」「風船」と共通していますが、大佛次郎の描く登場人物がどこかニヒルでヒロイックな側面を持っているのに対して、「てんやわんや」の犬丸順吉は名前の通り付和雷同型で「ゴムみたいな心」の持ち主であり、強い者には靡き、脅しにはぐらつき、将来に不安を感じながらも地に足の着いたことができず、一度は心酔した主義主張や友人に殉じることもせず、犠牲は払いたくないが、何とか自分だけがうまく世間を渡って行けないものかと願う、どうしようもない小者として描かれています。こんな人種を当時は「敗戦ボケ」とか言ったんでしょうか。
脇役としては、政治に色気のあるがめつい実業家の「社長」や、「風と共に去りぬ」のアシュレーのように、時代に抗う術も知らず没落していく気前のいい相生長者と、その周りに集う「東京とは一癖違うなどというものじゃない」田舎文化人衆、そして山奥の桃源郷に代々暮らす平家の末裔たち。敗戦の混乱だけでもてんやわんやと思ったら、東京と相生の食糧事情や気質の違いにてんやわんや、そして東京に残してきた「社長」と、やり手の秘書「花兵」の利己的な行動にてんやわんや、山の集落の奇習と美しい娘あやめにてんやわんやで、これでどう終わるつもりかと気を揉んでいると、最後は文字通りの大混乱、てんやわんやで幕を閉じます。戯曲の業績が多い著者らしくドタバタ芝居的なところがあって、読者が共感したのでしょう。作者の小説では代表作とされています。

2007年に取り上げてから9年にもなりました。長編の「帰郷」を味わってから、これと言ってストーリーのない「風船」に少し戸惑って、長らく積んであったのを読み終えました。解説にもあるように、バーに勤める女性久美子の自殺以外には大きなイベントのない小説で、登場人物がそれぞれの形で風船のように揺れ動き、確固たる価値観の崩壊した戦後の日本において、自分の人生を掴もうと足掻く姿を描写します。
いかにも新しい時代の波に乗ったニヒリストの実業家都築は、前作「帰郷」にも出てきそうな人物です。他人の弱みに付け込み、同情しまいとしながらも内心は「一途な女性にでも縋り付かれていたら人生も変わっただろう」と今の自分を否定的に捉えます。男を利用することにためらいのない奔放な美貌の歌手ミキ子、画家の夢を諦めカメラのメーカーを興して成功したが、苦学していた時代に住んだ京都の慎ましい生活が忘れられない春樹、それに世間体を何より気にする妻、父親と同じ会社に入って苦労知らずの利己主義者となった圭吉、世間知らずで純真な珠子、圭吉に翻弄される弱い女の久美子など、どこにも次の時代の芽は見えず、強いて言えば春樹が社長を退き京都で画家として再出発することと、「若い人に任せてみたかったのだ」と会社を委ねる(登場しない)会社の人が救いになるのでしょうか。実際に次の世代には、このカメラのような輸出産業が伸びて、日本の社会は方向性を見つけるわけです。
もちろん時代に即した小説であり70年も前のことですが、ここで登場する「風船」も、バブル経済として繰り返したという見方もでき、それゆえに根無し草として葛藤した登場人物相互の係わりは、現代でも通用するものとして読むことができます。この作品における大佛さんの文章は非常に完成度が高く、ストーリーが進まなくても会話や心理描写に浸っているだけで小説を読む喜びを提供してくれます。9年間で自分の小説の読み方も変わったものだと思いますが、これだけ冷徹、論理的でありながら彩りのある文章は、日本語として完成形のひとつでしょう。こんな文章が書ければと羨まずにいられません。