アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

めくらやなぎと眠る女(その2)

2017-06-20 23:41:38 | 
(前回からの続き)

 さて、ここらで印象に残った作品についてコメントしたい。まずは「我らの時代のフォークロア」。友だちを紹介する文章で始まり、更にその友だちから聞いた話を紹介するという入り組んだ枠組みの中の、煎じ詰めればある男女の哀しい物語である。ラブストーリーのような甘さも滲ませつつ、その中に不条理な人生の一刺しを織り交ぜるのがこの著者ならではのスタイル。しかも、その一刺しは小説らしい具体的細部に落とし込んでではなく、妙に抽象的、観念的なままポンと投げかけられる。ある日突然、女の子が「人生が怖いの」と言い出したりする。非現実的だけれどもインパクトがある。結末もまた、ちょっとしたすれ違いというアイロニカルなひねりが加えられている。

 「カンガルー日和」と「かいつぶり」は軽いタッチのシュールなスケッチで、初期村上春樹の典型的掌編だ。軽くてナンセンスでユーモラスで、まさにセンスのいい言葉の戯れ以上でも以下でもない。が、小説とはそれでいいんだというこの確信には私も同感。そしてその言葉と戯れる感性は、やはり卓越している。

 「人喰い猫」も村上春樹の行き当たりばったり的なプロット展開が炸裂する作品で、既婚者である若い男が不倫相手の女性とギリシャの島に行く。ギリシャの島で先のことを考えない呑気な生活をしていたある日、女が消える。男は夜の山に登り、女がどこへ行ったのか分からないまま話は終わる。タイトルの「人喰い猫」とは二人の会話に出てくるイメージであり、村上春樹が読者に投げる謎かけである。全体として何を言いたいのかやっぱり分からないが、ギリシャへ行く前の二人の会話などのディテールが面白い。

 「蛍」は青春小説である。私は『ノルウェイの森』は未読だが、もしからしたらこんな感じの小説なんじゃないか。自殺した親友や、親友の恋人とのデートや、寝ることや、涙や、別れの手紙などが登場する。このように道具立ては立派な青春小説で、しかもトーンは哀切、というありがちなものだが、ポーカーフェイスな一種のオフビート性、あちこち話が飛ぶ構成の緩さ、そして文体のしなやかさが、村上春樹印の短篇としての個性になっている。

 「偶然の旅人」は、言ってみれば乳がん検査をする女性についての重たい話、なのだが、偶然というキーワードを使って、少しばかり現実から浮遊した不思議な話になっている。この不思議感も、村上春樹作品の重要な要素の一つである。「ハナレイ・ベイ」も息子をハワイで死なせた母親が毎年ハワイに行って一か月ぐらい過ごすという話で、日本人サーファーとたまたま知り合ったり、また再会したりというようなエピソードをつないだ緩い構成だが、ちょっとだけ超自然的なスパイスを振りかけて不思議感を出している。
 
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」という長いタイトルの短篇は、「男の人生で本当に意味を持つ女は三人しかいない」という突然天から降ってきたようなテーゼの上で展開する。主人公の作家は、出会う女たちをカウントするという呪いをかけられている。そんな中で出会った一人の職業不詳の女。ある日突然消え、後日ラジオから彼女の声が聞こえてくる。彼女は、高いところにいくことが天職の女だった。というように、これもちょっとツギハギめいた話で、いくつかのイメージを接ぎ木して作ったと思われる短篇である。タイトルは主人公の作家が書く小説から取られていて、この「日々移動する腎臓のかたちをした石」が、三人の女を探して彷徨する主人公の何かをシンボライズしているようだが、その意味は茫洋としていて掴みがたい。ただ読後、読者の中に何かモヤモヤしたものを残す。

 「品川猿」でも、「我らの時代のフォークロア」や「バースデイ・ガール」の中の「人生が怖い」と同様に、唐突に登場するダイレクトで観念的なステートメント、「もう夫を愛していない」が強いアクセントとなっている。このような、生々しい具体性を欠いた観念的なステートメントの挿入は、「飛行機」「鏡」「ハンティング・ナイフ」などの、不可思議なイメージだけをぽんと置いて突き放す、という方法と並んで、村上春樹流短篇作法に欠かせない要素であるようだ。「日々移動する腎臓のかたちをした石」における「三人の女」のテーゼもそう。

 しかし、たとえば「トニー滝谷」のような作品はディテールが豊富で起伏にも富み、なんとなくするするっと読めてしまうが、その反面、結局何をしたいのか良く分からない。祖父や父親の代から書き起こす一家の一代記風だが、まとまりがなく、核心を欠く印象を与える。要するに、ジャズ奏者だった父親の話や服に異常な執着を持つ妻の話などがただ羅列されているだけ。羅列するだけでも小説は書けるという実験なのかも知れないし、ジャズの即興演奏のように瞬間瞬間の積み重ねなのかも知れないが、作品としてはやはり弱い。核心となるもの、中心点となるものがないからだ。この、ドーナツみたいに中心が欠けている感じもまた、村上春樹短篇の特徴の一つであり、彼の多くの短篇の共通する弱みではないかと思える部分である。

 最後の方のいくつかの短篇、つまり「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」などは、息が長い、小型の長篇のような感触の作品群である。つまりキャラクター達の絡みがあり、思いがあり、人生の発展がある。そしてその中に軽いシュールさとか、言葉のセンスの良さ、類まれなメタファー操作能力などが適度に織り込まれて、上品でお洒落な、村上春樹印の短篇として完成する。これらはコトバのセンスだけで勝負しているようなスケッチ風作品と比べて、より普通の小説に近い。そしてこういう作品においては、村上春樹のとりとめのなさ、中心点がどこにあるのか分からない掴みどころのなさもさほど気にならず、むしろミステリアスな魅力となっているように思う。メッセージが明確でなく構成がステレオタイプでないので、泥臭くないのである。

 ということは、村上春樹の小説はプロットが複雑化し長くなればなるほど良くなるのかも知れないが、まあそれはさておき、この独特の短篇作法によって、彼の短篇は軽やかでエレガントな反面、一点に凝固するような中心点を持たない脆弱さを感じさせる。たとえばポオやボルヘスの短篇とは対極にあり、ああいったギュッと凝縮された密度、硬度、緊密性には欠けている。しかしまあ、それが現代性というものなのかも知れない。私は彼の短篇をなかなか悪くないと思いつつ、最高と言うには何かが欠けているように感じるのだけれども、それは私が古き良き物語文学の香りを求めているからかも知れない。



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2 コメント

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Unknown (サム)
2017-06-23 01:07:05
村上春樹は事前にプロットを決めずに書くと公言してますが、初期の短編はもろにそういう感じですね。ありがちな文学的テーマに基づいて書くのを嫌った結果かと思いますが、失敗作は目も当てられないような出来です。だんだん(短編集だと「神の子供たちはみな踊る」辺りから急に)、そのやり方も洗練されてきて、深いテーマが内包されているような・読み手の深読みを当然の前提とするような作品を書くようになり、普通の小説にいわば反対側から近づいているような気がします。僕は初期から中期の作品が好きで、最近のはあまり読んでないのですが・・・
あと、お察しのとおり「蛍」を膨らませたのが「ノルウェイの森」のです。
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Unknown (ego_dance)
2017-06-27 11:51:51
プロットを決めずに書く件、「蛍」を膨らませて「ノルウェイの森」 になった件、やはりそうでしたか。読み手の深読みを前提とするような作品というのは、まったくその通りという気がします。「神の子供たちはみな踊る」という短篇集は未読ですが、次はそのあたりを読んでみましょう。
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