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『逃げる』 ジャン=フィリップ・トゥーサン ☆☆☆☆☆
『愛しあう』がすごく良かったので、その続編である『逃げる』をただちに購入、読了した。驚いたことにこれもまた素晴らしい。『愛しあう』に勝るとも劣らない傑作である。私の中でトゥーサンの評価は今更ながらうなぎのぼりだ。本書はメディシス賞を受賞しており、訳者のあとがきによれば「絶賛の嵐」を巻き起こしたそうな。ある批評家は「文学にこれ以上何を望むか」とまで言ったらしい。べた褒めである。しかしそれも納得のクオリティだから恐ろしい。トゥーサンってすごい作家だったんだなあ。
続編ということで、『愛しあう』と同じ主人公である。別れようとしていた恋人のマリーも出てくる。ただし今回は一人旅だ。前回は日本だったが、今度は中国。「ぼく」はパリから上海に飛び、列車で北京に移動する。ただずっと中国ではなく後半はフランスのエルベ島を訪れ、マリーと再会することになる。それにしても中国パートのかっとび方は実にハイ・テンションで、あらゆる状況が『愛しあう』よりもはるかにシュールである。上海に着いた途端に変な中国人に出迎えられる。この中国人のおじさんはずっと「ぼく」に付き添うが、中国語以外喋れないので「ぼく」とは基本的にコミュニケーションできない。おまけに行動が怪しい。彼がどういう人間なのか、何を考えているのかいつまでたっても分からない。
「ぼく」は女の子に出会って一緒に旅行するが、なぜかおじさんもついてくる。女の子の意図も良く分からないが、多分「ぼく」の面倒を見てもらうという善意によるものだろう、ということになる。が、やっぱりこの女の子も何がしたいのかよく分からない。この小説ではどの状況もよく分からないのである。
北京で観光し、なぜかおじさんとボーリング対決をする。それから女の子も加えた三人で、いきなりバイクで逃げる。タイトルの『逃げる』が直接意味しているのはこの場面だと思うが、これも意味が分からない。なぜ逃げるのか、結局「ぼく」にも読者にも分からないのである。それから「ぼく」はエルベ島に行き、マリーの父親の葬儀に立ち会うことになる。
この小説は明確に区切られた場面の連鎖によって成り立っているが、全然脈絡がない。つまり、ここにいわゆる物語は存在しないのである。因果関係も発見も意外な真相もない。旅行の意味も逃げる意味も分からないし、おじさんと女の子の関係も分からない。怪しい白い袋が出てくるが、結局あれが何だったのかも分からない。『ためらい』と同じように、これも突き詰めれば意味というものが存在しない小説だ。にもかかわらず面白い。どの場面にもスリルと詩情とミステリがあるし、ボーリングの場面なんか最高に笑える。つまりこの小説はほぼ文体のマジックと、場面場面を審美的に配置していくセンスだけで成り立っていると言っていいと思う。神業だ。これならもう何を書いても傑作になる、と思わされてしまう。
ところでエルベ島のパートでは、「ぼく」が語り手でありながら「ぼく」不在の場所でのマリーの描写を延々続ける、という叙述法も出てくる。もはや自由自在、融通無碍。トゥーサンの「語り」の技術はすでに孤高の域に達している。
『愛しあう』がすごく良かったので、その続編である『逃げる』をただちに購入、読了した。驚いたことにこれもまた素晴らしい。『愛しあう』に勝るとも劣らない傑作である。私の中でトゥーサンの評価は今更ながらうなぎのぼりだ。本書はメディシス賞を受賞しており、訳者のあとがきによれば「絶賛の嵐」を巻き起こしたそうな。ある批評家は「文学にこれ以上何を望むか」とまで言ったらしい。べた褒めである。しかしそれも納得のクオリティだから恐ろしい。トゥーサンってすごい作家だったんだなあ。
続編ということで、『愛しあう』と同じ主人公である。別れようとしていた恋人のマリーも出てくる。ただし今回は一人旅だ。前回は日本だったが、今度は中国。「ぼく」はパリから上海に飛び、列車で北京に移動する。ただずっと中国ではなく後半はフランスのエルベ島を訪れ、マリーと再会することになる。それにしても中国パートのかっとび方は実にハイ・テンションで、あらゆる状況が『愛しあう』よりもはるかにシュールである。上海に着いた途端に変な中国人に出迎えられる。この中国人のおじさんはずっと「ぼく」に付き添うが、中国語以外喋れないので「ぼく」とは基本的にコミュニケーションできない。おまけに行動が怪しい。彼がどういう人間なのか、何を考えているのかいつまでたっても分からない。
「ぼく」は女の子に出会って一緒に旅行するが、なぜかおじさんもついてくる。女の子の意図も良く分からないが、多分「ぼく」の面倒を見てもらうという善意によるものだろう、ということになる。が、やっぱりこの女の子も何がしたいのかよく分からない。この小説ではどの状況もよく分からないのである。
北京で観光し、なぜかおじさんとボーリング対決をする。それから女の子も加えた三人で、いきなりバイクで逃げる。タイトルの『逃げる』が直接意味しているのはこの場面だと思うが、これも意味が分からない。なぜ逃げるのか、結局「ぼく」にも読者にも分からないのである。それから「ぼく」はエルベ島に行き、マリーの父親の葬儀に立ち会うことになる。
この小説は明確に区切られた場面の連鎖によって成り立っているが、全然脈絡がない。つまり、ここにいわゆる物語は存在しないのである。因果関係も発見も意外な真相もない。旅行の意味も逃げる意味も分からないし、おじさんと女の子の関係も分からない。怪しい白い袋が出てくるが、結局あれが何だったのかも分からない。『ためらい』と同じように、これも突き詰めれば意味というものが存在しない小説だ。にもかかわらず面白い。どの場面にもスリルと詩情とミステリがあるし、ボーリングの場面なんか最高に笑える。つまりこの小説はほぼ文体のマジックと、場面場面を審美的に配置していくセンスだけで成り立っていると言っていいと思う。神業だ。これならもう何を書いても傑作になる、と思わされてしまう。
ところでエルベ島のパートでは、「ぼく」が語り手でありながら「ぼく」不在の場所でのマリーの描写を延々続ける、という叙述法も出てくる。もはや自由自在、融通無碍。トゥーサンの「語り」の技術はすでに孤高の域に達している。
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