アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

甘い生活

2014-05-12 19:36:27 | 映画
『甘い生活』 フェデリコ・フェリーニ監督   ☆☆☆☆☆

 フェリーニの『甘い生活』を再見。これは『カリビアの夜』の次で、『8 1/2』の前々作。マルチェロ・マストロヤンニが初めて出演したフェリーニ映画である。私は『カリビアの夜』を観たことがないので断言はできないが、一貫したストーリーを語らず緩いエピソードを連ねて映画を作るというフェリーニ・スタイルを打ち出した最初の作品なのではないだろうか。この映画は数々の賞を受賞したにもかかわらず、何を言いたいのかはっきり分からないということで、ファンの間でも賛否が分かれているらしい。

 映画は巨大なキリスト像をぶら下げたヘリコプターという、壮麗かつアイロニックな映像で幕を上げる。ヘリに乗っている主人公のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)はゴシップ記者。プレイボーイで、ダンディで、カメラマンを従えて華やかな社交場に出入りし、いかにも如才ない世渡り上手風である(これは表面的な仮面であることが後で分かる)。彼は裕福なセレブ女性、マッダレーナと一夜を過ごしたり、アメリカの大女優シルヴィアと夜のローマを徘徊したり気ままな独身生活を謳歌しているが、そのせいで同居している恋人エンマは自殺未遂をするなど、私生活は荒れている。やがて、彼がもともと物書きを志していた理想家の一面を持っていて、そのかなわなかった理想を友人スタイナーの上に投影していることが分かる。スタイナーは妻と子供を大切にし、アカデミックな、精神的な生活を送っている。世間の滓にまみれて生きているマルチェロは彼を敬愛している。スタイナーと再会した時のマルチェロは本当に嬉しそうだし、彼の影響でまた書くことに真剣に取り組んだりもする。

 平行して、彼がゴシップ記者として手がける仕事、たとえば聖母を見たという子供たち、それに群がるマスコミと大人達、それが招く一人の男の死などが語られ、またマルチェロを尋ねてきた父親のエピソードや、城におけるパーティーと幽霊狩りの模様などが語られる。エピソード間の脈略がないようにも見えるが、共通しているのは現代生活の虚飾を際立たせるようなアイロニックなトーン、そしてパーティー場面の多さである。何かといえば音楽が鳴り、女たちが踊り、酒を飲む。やがてエンマとの本格的な諍いのシーンをへて、スタイナーの自殺のエピソードとなる。マルチェロのいわば精神的支柱だったスタイナーは、生活に絶望して自分の子供たちを殺し、自分も死ぬ。この事件にマルチェロは破滅的な衝撃を受ける。そして映画最後のパーティー場面では、マルチェロがゴシップ記者さえ辞めて広告業に身を投じたこと、そしてもはや完全な道徳的荒廃の中で生きていることを観客は知る。最後のパーティー・シーンの空虚さ、退廃は目を覆うばかりだ。女たちはストリップをし、マルチェロは女に馬乗りになって鞭を打ち、羽枕を八つ裂きにして撒き散らす。
 
 一般に、この物語はマルチェロが現代の虚飾を蔑視しつつもスタイナーという精神的支柱に希望を託して生きていたが、宗教の堕落(聖母を見る子供のエピソード)、家族の幻想(父親とのエピソード)、愛の無力(エンマとのエピソード)などを経て、ついに精神的生活の決定的敗北(スタイナー自殺のエピソード)を見るに及んで、あらゆる希望を失い、現代生活の絶望と虚飾に呑み込まれていく、という解釈をされているようだ。確かに非常に辛辣でアイロニックなトーンから、そういう読み取り方ができるように思う。

 ラストは象徴的だ。長く退廃的なパーティーが終わった翌朝、人々はぞろぞろと浜辺へ出て行く。そして漁師たちが引き上げた巨大なエイの死骸を見る。みんなは「怪物だわ」「気持ち悪い」と口々に呟くが、死んだエイのどろんとした不気味な丸い目は、まるで空虚なパーティーに明け暮れる彼らの目のようだ。その時マルチェロは浜辺に立つ一人の少女に気づく。これは映画の途中、マルチェロがまだ希望をもって文筆活動に打ち込んでいた時に出会った、ペルージャの天使像に似た少女である。少女はマルチェロに何事か呼びかけるが、その声はマルチェロには届かない。彼は少女の声を聞くことを諦め、背を向けて、友人のセレブ達とともに再び退廃の中へと戻っていく。そして、そんなマルチェロを見送る少女の視線が観客全員に向けられ、ジ・エンド。

 現代生活を辛辣に批判するフェリーニの視線は明らかだろう。そういう意味では非常にペシミスティックな映画であり、デカダンな空気に包まれた作品だ。とにかくパーティーに次ぐパーティーで空騒ぎの空しさが強く印象づけられる。しかも3時間と長いので、途中で飽きてしまう観客も多いだろうと思われる。

 が、その退廃的ムードがただ批判の対象となるだけでなく、この壮麗な映像美とあいまってどこかで豪奢なめまいへと変わっていくのが、フェリーニ・マジックの真骨頂である。風刺やアイロニーだけでなく、そこから美とポエジーが生まれてくる。これが芸術の多義性というものだ。アメリカの女優シルヴィアとマルチェロが夜のトレビの泉で抱擁する場面で、息を呑まない観客がいるだろうか。それからまた、華やかで狂騒的な場面のあとには必ず沈痛な、あるいは静謐な場面が訪れ、その光と影が観客を幻惑する。こうした本作の特徴、壮麗なビジュアルの圧倒的な力や陰影の対比という手法は、この後の『8 1/2』や『ローマ』『アマルコルド』といった傑作群に継承されていく。特に、本作のマルチェロが『8 1/2』のグイドの前身であることは明白であり、映画自体のトーンや構造も酷似している。ただし、これほどの強烈なペシミスムと息詰まるデカダンスは、本作だけの特色である。

 また、本作で見ることができる若きマストロヤンニの美貌にはまったく惚れ惚れする。黒髪にほんの少しグレイヘアがまじり、男盛りの魅力とセクシーさに溢れている。渋さの極致だ。映画スターのオーラとはこれである。それから相手役として美女が続々登場するのも『8 1/2』と同じ。アメリカ人女優シルヴィアにアニタ・エクバーグ、裕福な有閑婦人マッダレーナにアヌーク・エーメ、マルチェロの恋人エンマにイヴォンヌ・フルノー、その他大勢。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコも本人役で登場する。

 アクが強いフェリーニ作品の中でも、特に人によって好き嫌いが分かれる映画だと思うが、私としてはやはり最高点をつけないわけにはいかない。現代生活のまばゆいばかりの豪奢と退廃、そして底なしの虚無を同時に描き出した一大絵巻である。
 


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