アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

怒り

2018-10-14 23:51:06 | 映画
『怒り』 李相日監督   ☆☆☆

 評判がいい映画のようだったので日系レンタルビデオ屋のDVDで鑑賞。結論から言うと、まあまあレベルだった。駄作ではないが、傑作とまでは言えないだろう。最近分かってきたが、日本で評価が高いある種の邦画は私の感性にあんまりフィットせず、自然、点が辛くなってしまう。それはどんな映画かというと、大体において暗く、深刻で(もしくは深刻ぶっていて)、登場人物が頻繁に泣いたり叫んだりする映画である。『そこのみにて光輝く』のレビューでも同じようなことを書いたが、あれもそんな映画だった。

 それは単にお前の好みだろうと言われそうだが、一応その理由を説明したい。まずはざっとあらすじを紹介すると、冒頭で残虐な殺人事件が起き、壁に「怒」の血文字が残されている。犯人は整形して逃亡し、一年たっても捕まらない。一方、日本の東京・千葉・沖縄の各地に身元不詳の三人の男が出現する。東京はゲイの男に拾われて同棲を始める青年(綾野剛)、千葉では漁港でアルバイトを始める青年(松山ケンイチ)、沖縄は孤島で暮らすバックパッカーの青年(森山未來)。それぞれ風来坊ながら、自然とそれぞれの地で人間関係が出来上がっていき、彼らを愛し、信頼する人々が現れる。さて、彼らのうちひとりは殺人犯なのだろうか、その人物は周囲の人々をダマしているのだろうか、というストーリーである。

 つまりこの映画は群像劇になっていて、三ケ所で三つの人間関係がバラバラに進行し、最後まで交わることはない。ただ、この男は殺人事件の犯人なのではないか、という疑いが人間関係に影響することだけが共通している。

 この映画の評価が良い理由は私にも分かる。三つのサブ・ストーリーすべてが人間の愛情とそれに基づく信頼関係という、いわば高尚な文学的主題を扱っているし、それに伴う人間的苦悩や葛藤が取り扱われているし、それらを実力ある俳優たちがシリアスこの上ない演技で見せる。最後には、それぞれの物語でちゃんとカタルシスが訪れる。

 では私がそれほど高く評価しない理由は何かというと、大きく二つあって、一つは必要以上に深刻ぶったその姿勢、もう一つは(まさに深刻ぶりたいというその姿勢によって)物語のディテールがご都合主義的に歪められていること、この二つである。

 一つ目の理由を補足説明すると、私はそもそも映画や小説のポエジーは多義性とアイロニーから生まれるものだと思っているので、必要以上に深刻ぶったトーンや感情的なトーンはむしろ逆効果だと考えている。情緒過多はNG、大事なのは抑制である。私見では、傑作と呼ばれる作品にはどんな重厚で悲劇的な映画でも、どこか軽やかさ、明澄性がある。『七人の侍』や『生きる』しかり、タルコフスキーやアンゲロプロスやズビャギンツェフでさえそうだ。小津やカウリスマキは言うまでもないだろう。

 ところが、なぜか一般にはアイロニックな映画より感情的な、つまり観客の情緒を刺激してボロボロ泣かせるような映画が良い映画とされている。当然ながら、そういう映画では登場人物が頻繁に泣いたり叫んだりし、激情的に振る舞う。この映画もその範疇の映画だ。終盤ではほとんどすべての登場人物が慟哭し、嗚咽するが、それ以外の場面でもやたらと沈鬱なムードが漂っている。松山ケンイチと渡辺謙の会話など常にお通夜みたいだし、警察の取調室ではなぜか灯りがついておらず、尋問される男は顔つきから何から不気味だ。終盤近くで泣き叫ぶ宮崎あおいはどう考えても精神崩壊したかと思わせるレベルだし、海に向かって絶叫する広瀬すずもやり過ぎだ。いわゆる「鬼面人を驚かす」方式である。

 二つ目のご都合主義については、映画『The Rewrite』中のヒュー・グラントのセリフを引用したい。主人公は映画の脚本講義でこう言う、映画では登場人物がストーリーを動かすべきであり、決してその逆であってはならない、と。まあ実際にはストーリーに合わせて登場人物を動かすこともあるだろうが、要はそれを観客に悟らせてはならない、ということだ。悟られると観客は夢から覚醒する、つまり映画の魔法は解けてしまう。

 この映画では、たとえば広瀬すずのレイプ現場をたまたま彼女の二人の知りあいが別々に目撃したりするが、もっと不自然なのは松山ケンイチと渡辺謙のエピソードである。素性を虚偽申告しているというあの状況で、あれだけ指名手配写真そっくりだったら「もしや」と疑わない方が不自然だが、渡辺謙は池脇千鶴に「自分の娘が幸せになれるはずないと思ってるんじゃないの? どうして信じてやれないの?」と詰られてしまう。どう考えても無茶なのだが、これはもちろん映画製作者の、「信頼」を問題にしたいという都合によるものだ。

それ以外にも、犯人を最後まで分からないようにしたい等の都合のために話の流れや作劇がイマイチしっくりこない。レイプされた広瀬すずは途中でフェードアウトしてしまうし、森山未來のキャラも後で振り返ってみると何をしたいのかよく分からない。なぜ彼は食堂で暴れたのか? 単にキレやすい性格だからか? そもそも何にキレたのか? 

 冒頭の殺人事件の真相も拍子抜けだった。「怒」という血文字はいかにも意味深だったが、その実態や事件の成り行きはあまりにも浅墓で、無意味に近いものだ。あれだと、要するに世の中にはアブナイ人がいますねというだけになってしまう。

 さっき書いた通り、終盤では登場人物のほぼ全員が泣いたり叫んだりするが、それらの場面では必ず重々しく悲しげな音楽が鳴り響いていて、この映画の感傷性に拍車をかけている。音楽が実は坂本龍一であることをエンド・クレジットで知ったが、世界のサカモトもこの使い方ではまずいだろう。情緒垂れ流しになってしまう。

 物語の骨格や群像劇を組み合わせるアイデアは悪くないし、役者たちの芝居も見ごたえがあるので、こんなに深刻ぶったり泣き叫んだりしなくても、いやそれをしない方がより感動的になったと思うのだが、どんなもんだろう。



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