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『ラブレス』 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督 ☆☆☆☆★
ズビャギンツェフ監督の新作をiTunesのレンタルで鑑賞。この監督の作品はとりあえず見ないと気がすまないようになった。完璧なまでの映像美もさることながら、画面が強烈な謎をはらんで観客に何事かを問いかけてくるようなこの呪縛力は、他の映画ではなかなかお目にかかれない。
さて、本作のストーリーはシンプルきわまりない。これまでのズビャギンツェフ監督の映画の中でも、もっともシンプルな構造の映画だと思う。愛のない、離婚直前の夫婦がいる。まだ小学生ぐらいの息子がひとり。ある日、その息子が消える。行方不明。ただそれだけ、この映画はまさにそれだけの映画である。
もちろん、物語はそれだけでは終わらない。夫婦は警察に連絡し、捜索が始まる。夫婦にはそれぞれ新たなパートナーがいて、そっちとのやりとりや、妻と母親の関係性などもそれなりに描かれる。が、すべて枝葉末節と言っても過言ではない。この映画全体を支配するのは、二つの主要な疑問である。一つ目の疑問は、息子はなぜ消えたのか? そして二つ目の疑問は、この夫婦二人はなぜ息子を探すのか?
一つ目の疑問からは更にいくつかの疑問が派生する。たとえば、これは果たして意図的な失踪なのか、それとも事故か、犯罪か。それからまた、より重要な問いとして、この失踪に夫婦の離婚は関係あるのか、ないのか。その結果がどうなるのかもちろんここには書かないが、ズビャギンツェフ監督の映画の特徴をすでに知っている観客にとっては、大体の予想はつくだろう。ひとつだけ言っておくと、問いの結果がどちらであっても実は同じことなのである。少なくとも、この映画はその立場を取る。従って観客に問いかけはするものの、答えには関心がないように思える。子供は、消えるべくして消えたのである。
そして二つ目の疑問は、更に観客の背筋を寒くさせる。夫婦の行動は、こういう事態になった時にどの親でも取るであろう行動である。心配し、青ざめ、警察に連絡し、警察の関心の薄さに声を荒げさえする。が、それは本当に子供を心配しているからなのか。母親は「あの時妊娠さえしなかったら、あなたなんかと結婚しなかった」「あの妊娠が私の人生を狂わせた」と、映画の間中言い続ける。夫はもう耳タコ状態のようで、うんざりした顔で聞き流すだけだ。だとしたら、この二人は一体なぜ息子を探しているのだろう。この二人の懸命の行動は、一体何のためなのか。空っぽの社会的慣習なのか、自動化されたメカニズムなのか。息子が生まれたことが人生最大の過ちだったとしたら、彼らは一体何をしているのか。この疑問は観客の心の中で次第に大きく育っていく。これは恐ろしく、不気味な問いである。
この二つの問いは、もちろん密接に関連している。というより、実際には一つのコインの両面である。そしてこの映画は、上映時間中一瞬たりともこの問いを観客に突きつけることを止めない。観客はただ、この問いをひたすら見つめ続ける以外にない。これがこの映画の構造である。シンプルきわまりない。
ラブレス。愛の不在。この映画が見せるのは愛の不在であり、愛が消えたあとの空虚そのものである。私たちは二時間かけて、それを凝視することになる。
ラストシーンで、私たちは離婚した後の二人の姿を見る。そこには日常がある。国が分断されるほどのニュースにも、母親は無関心だ。深刻な声でニュースを伝えるテレビに一顧だにせず、彼女はベランダでエクササイズをする。そして、無表情なまま観客に視線を向ける。ここで私たちは再び考えるだろう、アレクセイの失踪事件は果たしてこの二人に何をもたらしたのか、と。答えは明らかである。
『エレナの惑い』と同じように、この映画の結末は冒頭とシンメトリーをなしている。木の枝にからまったテープが再び登場するが、この映像は観客に告げているかのようだ。あの少年、まるで最初から存在しなかったかのように消えてしまった少年は、かつてここに、本当にいたのですよ、と。
ズビャギンツェフ監督の新作をiTunesのレンタルで鑑賞。この監督の作品はとりあえず見ないと気がすまないようになった。完璧なまでの映像美もさることながら、画面が強烈な謎をはらんで観客に何事かを問いかけてくるようなこの呪縛力は、他の映画ではなかなかお目にかかれない。
さて、本作のストーリーはシンプルきわまりない。これまでのズビャギンツェフ監督の映画の中でも、もっともシンプルな構造の映画だと思う。愛のない、離婚直前の夫婦がいる。まだ小学生ぐらいの息子がひとり。ある日、その息子が消える。行方不明。ただそれだけ、この映画はまさにそれだけの映画である。
もちろん、物語はそれだけでは終わらない。夫婦は警察に連絡し、捜索が始まる。夫婦にはそれぞれ新たなパートナーがいて、そっちとのやりとりや、妻と母親の関係性などもそれなりに描かれる。が、すべて枝葉末節と言っても過言ではない。この映画全体を支配するのは、二つの主要な疑問である。一つ目の疑問は、息子はなぜ消えたのか? そして二つ目の疑問は、この夫婦二人はなぜ息子を探すのか?
一つ目の疑問からは更にいくつかの疑問が派生する。たとえば、これは果たして意図的な失踪なのか、それとも事故か、犯罪か。それからまた、より重要な問いとして、この失踪に夫婦の離婚は関係あるのか、ないのか。その結果がどうなるのかもちろんここには書かないが、ズビャギンツェフ監督の映画の特徴をすでに知っている観客にとっては、大体の予想はつくだろう。ひとつだけ言っておくと、問いの結果がどちらであっても実は同じことなのである。少なくとも、この映画はその立場を取る。従って観客に問いかけはするものの、答えには関心がないように思える。子供は、消えるべくして消えたのである。
そして二つ目の疑問は、更に観客の背筋を寒くさせる。夫婦の行動は、こういう事態になった時にどの親でも取るであろう行動である。心配し、青ざめ、警察に連絡し、警察の関心の薄さに声を荒げさえする。が、それは本当に子供を心配しているからなのか。母親は「あの時妊娠さえしなかったら、あなたなんかと結婚しなかった」「あの妊娠が私の人生を狂わせた」と、映画の間中言い続ける。夫はもう耳タコ状態のようで、うんざりした顔で聞き流すだけだ。だとしたら、この二人は一体なぜ息子を探しているのだろう。この二人の懸命の行動は、一体何のためなのか。空っぽの社会的慣習なのか、自動化されたメカニズムなのか。息子が生まれたことが人生最大の過ちだったとしたら、彼らは一体何をしているのか。この疑問は観客の心の中で次第に大きく育っていく。これは恐ろしく、不気味な問いである。
この二つの問いは、もちろん密接に関連している。というより、実際には一つのコインの両面である。そしてこの映画は、上映時間中一瞬たりともこの問いを観客に突きつけることを止めない。観客はただ、この問いをひたすら見つめ続ける以外にない。これがこの映画の構造である。シンプルきわまりない。
ラブレス。愛の不在。この映画が見せるのは愛の不在であり、愛が消えたあとの空虚そのものである。私たちは二時間かけて、それを凝視することになる。
ラストシーンで、私たちは離婚した後の二人の姿を見る。そこには日常がある。国が分断されるほどのニュースにも、母親は無関心だ。深刻な声でニュースを伝えるテレビに一顧だにせず、彼女はベランダでエクササイズをする。そして、無表情なまま観客に視線を向ける。ここで私たちは再び考えるだろう、アレクセイの失踪事件は果たしてこの二人に何をもたらしたのか、と。答えは明らかである。
『エレナの惑い』と同じように、この映画の結末は冒頭とシンメトリーをなしている。木の枝にからまったテープが再び登場するが、この映像は観客に告げているかのようだ。あの少年、まるで最初から存在しなかったかのように消えてしまった少年は、かつてここに、本当にいたのですよ、と。
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