崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

私の研究のオリジナリティ

2011年06月11日 05時18分24秒 | エッセイ
 私は最近植民地時代の韓国の巫俗に関する二人の研究を詳細に調べてそれぞれオリジナリティ(独創性)を検討した。それは私の研究のオリジナルティに関することでもあった。昨日名古屋大学の浮葉正親氏から『シャーマニズムの諸相』(勉誠出版)が送られてきた。私の説を紹介してくれたので感謝であり、当時を思い出して不快感も浮き上がった。
 私は大学で植民地時代の秋葉隆の自称弟子といった(『朝鮮』)任宰先生の教えで秋葉の「巫俗」を研究し始めたころの話である。私は全羅道の巫俗を調査してダンゴルという世襲巫が巫俗には含まれるがシャーマンではないことを発見した。そこにはエリアーデ、シロココロフなどの外書を参考にして1968年韓国文化人類学会の全国大会で主張し、反響を得たのである。しかしまったく外書を読んでいない、主に国文学者たちにはあまりにも唐突な私の説を否定する反対する運動のような雰囲気があった。特に済州島や全羅道地方の研究者からは「なぜわが地域のムーダンがシャーマンではないか」と、学問外のナイーブな世論のような文がでた。私はこの理論を強化しようとして新しく創刊される『韓国民俗学』に論文を寄せたのである。一年後に学会誌がでたのをみたら、その編集を担当した故金泰坤の先頭論文に私とは真反対の理論、世論を代表するような文を書いて、次に私の論文が乗せられているのをみて私のオリジナリティが盗まれたと思ったのである。それは被害妄想的なことではない。それが韓国シャーマニズムの2大説として引き継がれているといるのである。
 私の説や理論に反対することは別に悪くもないが、私の論文を事前に読んだ人にオリジナリティを盗まれたことは数回書いたことがあっても広く届かなかった。今度秋葉と村山の二人のオリジナリティを検討したのは自分自身の問題でもあった。私はその後植民地研究へ注力したがそのオリジナリティはきちんと認められたい。