崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「私の日本留学」

2011年06月24日 05時22分05秒 | エッセイ
 連載中の「東洋経済日報」(2011,6,17)掲載文を全載してみる。

 私の日本留学には最初から無理があった。日韓国交正常化となり、石田英一郎先生、泉靖一先生などが来られ、韓国文化人類学会で講演会が行われた。私はその時、幹事をしていた。1972年、ソウル大学の恩師の李杜鉉先生の紹介で日本留学をにわかに決心した。海外への持ち込み制限額200ドルを持って日本に来た。ある教会で泊めてくれるという期待を持ってきたが、そこの長老から「教会は旅館ではない」と断わられ、期待ははずれ、もち金は数日間の滞在費に過ぎなかった。私は突然飢え死にする境地になっていた。さらに私は高い学費を払わなければならなかった。兎に角その頃は常に無銭の状況であった。
日本語ができず、すべてが無能な無重力な状況で私は完全に気力も失った。書籍販売会社で労働、食堂や洗車所などでアルバイトをし、授業料を払うまでにはもっと必死にならなければならなかった。さらに韓国人としてアパート探しも難しかった。ほぼ決まる段階で韓国人であることを不動産の方が言った時、丁寧に後で夫と相談の上連絡しますとのことであった。私はその言葉をそのまま信じて嬉しかったが、同行した友人は不可能であろうと言った。その通りであった。
ようやく見つかったアルバイト、10日間にたいして「アルバイト料はいくら出せばいいか」と聞かれて「貴方の判断におまかせします」と答えて、報酬の入った封筒をもらった。たったの一万円であった。最初の日本人との仕事上の出会いというか、縁がこんな状況であり、大いに失望した。しかし考えてみると自分がしっかりしていなかったからである。朝鮮奨学会、米山奨学金へのアプライも不合格だった。英語塾の教師へ推薦により面接に行ったこともあったが落ちた。そんな最中に指導教授を亡くし、浮いてしまった。私はすべての日本人の先生から疎外されたような気持ちになり、地獄に落ちた感じであった。さらに日本の気候に適応できず腰を痛くし、激しい労働で結核の再発の憂いが襲ってきた。
しかし辛い思い出ばかりではなかった。狭い道を歩く苦難にも柳東植先生のように最後まで信頼してくれて、相談に乗ってくれた方もおられた。そんな私に柳先生はポケットに残っているコインをくれた。それは貴重な恩恵のお金であった。後に伴侶の幸子に出会ったことも幸運であった。
そんな時のある日、大学の階段で一万円札を拾った。貧困の境地にあった私にとって正直さのテストであった。事務室に届けてほっとした。また民団で世話になった老人から私がお金を盗んだと非難され、相手の勘違いだとわかっていたが、私は賠償した。後に彼がそのお金を戻しながら自分の間違いであったことを詫びてくれた。
東京大学の中根先生の研究会で発表し、伊藤、末成、嶋の諸氏の協力を得て学位論文を準備したが、成城大学は最後まで学位を認めてくれなかった。後に筑波大学の芳賀登先生の推薦で宮田登先生が主査となり、指導を受けて論文を提出し、文学博士の学位を取得したのは望外の喜びであった。その時にはすでに13年の歳月が流れていた。