崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

東北弁の聖書

2011年06月07日 05時13分54秒 | エッセイ
 目下博士課程の医師の倉光誠氏から東北の医師の山浦玄嗣氏(写真)訳の聖書を大被災地献金支援活動の一環として購入したものをプレゼントしていただいた。朗読用のローマ字の文とケセン語訳文が対照されている。訳者はふるさと気仙地方の言葉『ケセン語』を研究し、『ケセン語入門』(1987)などの著書があるひとである。イスラム教や仏教などの経文はできれば原典重視の思想が強いが、キリスト教のプロテスタントでは地方の言葉で翻訳されて親しまれるようになっている。特に新約聖書は証言や書簡文である。まず宣教と伝道に歩くイエスの姿、伝道の旅の心を地域の方言で聞くのは聖書をよく理解することになる。訳者は釜石市、気仙郡越喜来村育ちであり、気仙語で訳した。私は東北弁のリズムはわかっても理解できないが、秋田出身の家内は聞いて懐かしい表情をする。
 牧師や神学者たちは注釈的、あるいはエピソード的に語ることが多く、「人に説教」のような読み方をすることが多い。旅人の心、伝道の心を素直にキャッチするためには方言でも、自分の言葉で読むことが大事であろう。韓国では伝統的な音楽のパンソリで歌ったものがある。しかし聖書は読み解釈ではなく、思考と実行の生き方へ焦点を置くべきであろう。