駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

小旅行

2010年09月20日 | 
 連休で小旅行出かけた。単線電車に乗るというのは久しぶりで、いい年をして運転手の後ろに立って田舎の風景を満喫した。畑を焼いているのだろうか煙が見える。
 知らない町(芭蕉の故郷)を歩くと、思い描いていたイメージとのずれがだんだん新しいイメージになってゆくのが感じられ楽しい。山の中というわけではなく盆地で結構開けており、こじんまりとしながら品のある城下町の佇まいに好感をもった。どうも昔は戦略的にそれなりの要所であったらしい。
 なんだかやたらと硬いせんべいを歯が折れないかと恐る恐る齧りながら城山に登り、天守閣から四方を見渡したが、残念ながら凡夫には一句も浮かばなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勉強する

2010年09月19日 | 身辺記
 実は日曜日の午前中は特別な行事がなければ二時間ほど勉強してきた。我々の業界では日頃患者のわがままを聞いて疲れるので、日曜日はストレス発散にゴルフ、テニス、釣りなどに出かけるのが常識?になっており、勉強しているなどと告白すると変人扱いされるので黙っている。もっともいい年をして勉強というのが気恥ずかしいだけで、本当はそこそこの数の仲間が日曜日に勉強している気もする。
 午前中は頭が冴える、と言っても悲しいかな十年前の半分ほど、ので新知見をまとめるのに都合がよいのだ。たぶん私が本質的に朝型人間だからだろう。
 勤務医時代には付き合いで年に数回ゴルフに出かけたのだが、一日潰し、かなりの金額を支払うゲームに馴染めずやめてしまった。悪い性格でスコアにこだわり、いつもブービー賞ばかりに嫌気がさしたせいもある。
 医学は科学なので類推や応用は利くが、自分で考え出すことはできない。どうしても学ばなければならない。勿論、臨床経験からずれた内容は少ないのだが、自信ある臨床経験にも科学的なデータと専門家の論証の裏打ちが必要になる。尤も、これが臨床の玄妙なところで患者には個性があるので、一万人の治験から得られたデータが特定の個人に100%適応できるかと言えばそうではない。そこに主治医のある範囲の裁量が要求される。それが上手くできるように最近では各疾患の治療ガイドラインが出ている。専門医達が知恵を絞って最新のデータから最良の方針をまとめたものだ。ガイドラインと言ってもそこそこ厚みのある一冊の本で、内容は豊富で使いこなすのは容易ではない。
 臨床医学は難しくはないが、範囲が広いので量がべらぼうに多くて、通暁するのは至難の業である。それでも五十歩と百歩は微妙だが明らかに違うので、覚えるよりも忘れるのが得意になった脳味噌に詰め込んでいる。これは謂わば薫陶で身に付いた習慣で、つくづく恩師先輩はありがたいものだと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爪はがし事件

2010年09月18日 | 世の中
 北九州市で起きた爪はがし事件に無罪判決が下った。どうも冤罪だったらしい。信じ難いことだ。虐待報道は嘘だったのか。なぜこれが事件として取り上げられてしまったのか。
 ストレスで爪を剥がすといった報道で作り上げられた鬼看護師のイメージは容易に払拭されない。本人を直接知る人はそんなはずはないと思っていたのだろうが、メディアの報道しか知らない人の心に作られたイメージは白紙に戻らない。捕まったのだから訴えられたのだから何かあると考えがちなのが、遠巻きの人の心理というものだ。
 ここまでは夕刊で見た情報と記憶にある情報で書いた。もう少し詳しく調べれば、多少違った見解になるかもしれないが、平均的な情報で感想を書くのは妥当と思う。
 菅家事件、村木事件そして今回の爪はがし事件。冤罪で失われたものは取り返しがつかない。無罪の判決や申し訳ないでは済まない。個々の人生を毀した咎に並んで、こうした間違いをやり過ごしてしまう社会の自浄能の不足に慄然とする。運が悪い可哀相では不十分だと思う。構造的な欠陥に踏み込んでゆく必要がある。
 今の日本社会には多くの問題があるが、第一に洗い直す必要があるのは検察とマスコミの体質ではないかと思う。その根底に歪んだ正義が横たわっているのではないかと危惧する。硬直した正義ほど恐ろしいものはない。独立性や独自性が密室に依って保たれるというのは錯覚だ。情報公開によって独立性や独自性は始めて実現でき、許容されるものだと思う。
 人は誰しも身近でない遠い他人の身の上には無関心になる傾向があり、他人の不幸は密の味という心性を多かれ少なかれ持っている。洪水のように溢れる情報を前にして、多くの人は断片の情報に終始し、先入主で処理してしまいがちだ。
 受け手には情報を咀嚼吟味する力が、情報送り手と法の執行者には第三者による公平性公正性の評価が求められる。
 やるせない事件でつい力が入り、偉そうな論評を書いてしまったが、まずなによりも、誰にも起こり得る事件として受け止めることが大切だと思う。そこから始まる。
 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山の見える風景

2010年09月17日 | 身辺記
 日本は山国なので、私と同じようにどちらかの方向に山並みが見える場所に住んで居られる方が多いだろう。東京名古屋大坂は例外で、例外の方が人口が多いのだが、日本の原風景は指呼の間に山並みと水と思っている。
 今朝玄関を出ると手前の山の中腹に雲が懸かって、日本画の様なちょっと幻想的な景色を見せていた。山肌はいつもは緑に見えるのだがやや青っぽく陰りがあり、まるでおぼこがお化粧をして急に女っぽく妖艶になったような感じがあった。
 突然の秋と言えばよいのか、一日で一ヶ月季節が進んだ。最初の研修医が丁寧にお礼を言い、見事なお辞儀をして病院へ帰っていった。民主党の党首選挙も終わり混迷必至のようだが、それは既に遠い昔のようで、初秋の青い山並みは世は全て事も無しと告げているかのようだ。
 いつもの懐かしい季節感は不思議な心の安らぎをもたらす。心のどこかで宇宙船地球号の安定した運行を感得するためだろうか。
 北杜夫だったか、幸せな老医の一日として、朝一杯のお茶を楽しみ午前中の二時間ばかりで五、六人の患者を心おきなく診察して、我が家に戻って庭を一回りした後、本を紐解くというような文章を読んだ記憶がある。そんな日は来ないと分かってはいるが、そんな日を夢見て五、六十人の患者さんを診ることととしよう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今頃、今更

2010年09月16日 | 町医者診言
 今頃何を寝ぼけたことをと言われそうだが、民主主義というのはなんぞやと問い直したい。二十一世紀の日本を見て安吾は壮一は何と言っただろう。多くの戦前戦後を生きた学者やジャーナリストに問うてみたい。不可能のようだが、それを代弁できる人達がいるはずだ。忖度されても怒るまい。片腹痛いと笑うだろうか。
 医学と医療は技術で変容した。民主主義にもそうした所はあるのではないか。沖中先生がこれは脳出血と診断されても、研修医の顔は一枚のCT画像の方を向くだろう。民主主義の本質は変わらずと碩学が旧い講義ノートを読んでも、果たしてそうかなと思ってしまう。
 カエサルのものはカエサルにと言うのだが?
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする