駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

羽生マジックが消えた

2008年12月19日 | 趣味
 と金が四枚、出た羽生マジック、これで矢倉に誘導して羽生勝ちと思った。ところがどっこい竜王苦心?の3三銀の突っ張り。さすがの羽生もむっとしたか7五歩と仕掛ける。なんだかヘボには難解だが8七歩成りの手順を選ばず5二飛とし、一瞬竜王怯んだかと思ったのだが、2三歩の垂らしに私の第一感と同じ4二金として羽生の攻めをきわどく凌いだかと思ったのもつかの間、ついに凌ぎきれず六時過ぎ5四香で阿久津村山から羽生勝ちのご託宣。
 不届きにも診察の合間にパソコンを覗き、手に汗を握ってきたが、残念ながらここで時間切れ。いよいよ羽生永世竜王誕生かと思いながら、介護保険適正運営検討会へ向かう。案の定、委員の四分の一が欠席している。将棋ファンは多くないからクラブチャンピオン準決勝の観戦で抜けたなと思う。それとも暮れでいろいろ忙しいのかな。市役所介護保険課の説明を聞き、いろいろ質問をして九時半帰宅。
 さて永世七冠達成のコメントはと竜王戦ネットを開くと渡辺竜王が笑っている、まだ表紙の写真は変えていないんだと棋譜を見るとあれれ、後手が勝っているではないか。阿久津村山は信用できん。
 棋譜を追うとヘボにも羽生の切れ味が鈍っているのがわかる。両者へとへとの混戦を制したのは渡辺の肝っ玉力か。どうもこれで私の嫌な予感、鈍感力と剛胆力が羽生には有効ということが知れ渡り、空前の天才羽生もこれからは少々苦戦が予想される。尤も、真の鈍感力や剛胆力の持ち主がそう居るわけはない。
 
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平生往生

2008年12月18日 | 小験
 毎年六、七名の患者さんを自宅で看取る。その平均年齢はついに九〇歳を超えた。有体に言えば、臨終はドラマのようではないし大往生というに相応しい別れは半数に満たないと思う。
 死は最も私的なことで、町医者ごときが臨終のあり方にについて何かを言うことは適当でないかもしれない。しかし死に巡り会うことは一般の方には稀なことと思うので、お願いしたいことがある。これは職業上経験したことに基づいているが守秘義務には触れないと思う。
 それは、死は何よりも御本人のものであると云うことと、長く看病された方の気持ちを尊重していただきたいと云うことの二つである。当然のことのようで、そうした配慮に欠ける方が、別れの時と場をかき回されることがある。家族のことに口を出すのは差し出がましいので、黙っているが。
 メメント・モリリと云うが、平生往生なのだ。
 
 
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経済学はどの程度科学か

2008年12月18日 | 小考
 どうも大げさなタイトルを付けたが、正直な気持ちでもあるし、賛同する経済門外漢も多いと思う。科学には予測可能性と再現性が必須だ。臨床医学は科学かと反撃を食らいそうだが、多数を対象にすれば科学なのは容易に証明できる。個別の場合には「かん」が有用だったり、医師にも職人芸的な要素が出てくるが、それでもそこそこ予測や再現性が保たれている。
 経済に関する勉強はしたことがなくマスコミからの情報で物を言うのは、暴挙かも知れないが、経済ほど専門家?の言うことが食い違い、予測が外れる科学はないのではないかと疑っている。もし様々な専門家の言うことがさほど的はずれでないなら、随分と鈍いあるいは茫漠とした科学だなあと言いたい。それともマスコミで色々託宣を並べる人達は本当の専門家ではないのだろうか。
 経過や結果をまことしやかにあるいは成る程と穿った説明が出来ることは科学者の必要条件でも十分条件でもない。朴訥で言葉少なくても、いつも正しい予測が出来れば十分科学者なのだ。なんだかマスコミは実力はさておき、立て板に水の何でもたちどころに説明できる人や自分の考えをどんどん主張する人を愛用しているのではないかと疑いたくなる。政治家も自称経済通が多いのではないか。
 こうした疑問は、経済学というものに対する私の理解不足から生じている可能性もある。経済現象は非常に複雑で、素人が考えるほど簡単には予測できないものなのかもしれない。そうであれば、もう少し控えめに謙虚に解説をしてもよいと思う。いかにも自分が正しいように話し、予測が外れれば直ちにその理由を用意している人物を、医者の場合有能とも優秀とも言わない。中には榊原英資氏のように、素人目にも本物で実力のある人も居るが(異論はあるかもしれない、他にも優れた人がおいでかもしれない)。
 揶揄するばかりでは進歩がないので、経済書を読むほどの時間や根気はないが、眠気誘いに経済の解説書を読もうとしてみるか、ZZZ。
 
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楽しみを考える

2008年12月17日 | 趣味
 楽しみというものは、思い巡らし計画を立てる時から始まり、喜びは達成する寸前が頂点のような気がする。
 Ann(e)ほどではないが、あれこれ想像を逞しくする才能?に恵まれているので、旅行の計画や買い物の計画から実現性のほとんどない移住計画まで考えることがある。
 取り合えず今は自分へのクリスマスプレゼントを考えている。もう誰もクリスマスプレゼントなどくれない。頂戴という人は一杯いる。どうも貧乏性で、毎年今年は奮発と思っても、結局自分はもういいやとか今度にしようなどとなってしまう。それでも一応CDプレイヤーをもう十年使ったからワンランク上のにしたいと思って検討に入ってはいる。
 なぜか分からないが、妻子孫に買ってやる時は奮発するのに自分の時は倹約してしまう。さして私と収入が変わらない友人の中には高級車が買えるほどの音響装置や一生掛かっても飲みきれないワイン収集をしているのが居る。自分にはとてもそんな真似はできない。大して使わない小遣いはほとんど本代に消える。
 面白い考え方があって、実際に実現したことを望んでいたのであって、実現しなかった夢は本当は望んでいなかったとか、判断するたびに(正確な表現ではない)世界は枝分かれし、実は無数の世界が併存しているのだという多世界理論などがある。どうも負け惜しみ理論とか無いも同然理論と名付けたい考え方で、どちらも私には説得力がない。
 昔、私作る人僕食べる人というコマーシャルがあった。セクハラだか女性蔑視だかで、中止になった。僕稼ぐ人私使う人というのは逆セクハラとか男性蔑視にならないものかと考えたりする。もっとも、それは対になるから単に思いつくだけで、実際には、僕稼ぐ人私達使う人で全然抵抗はない。正直に言えば買って貰って嬉しそうなのを見るのは楽しい。存外そんな男も多そうだ。
 どうも楽しみを考えるから脱線してしまった。復旧は難しいので、楽しみについてはいつか又の機会に書きたい。
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活字中毒 重症ではなかったが

2008年12月16日 | 身辺記
 自分はかなり重症な活字中毒と思っていた。外で昼飯の時など、チャーハンやオムライスが出てくるまでのたかだか数分でも、何かを読んでいたい。何もなければメニューを隅から隅まで読んで我慢することもある。連れ合いはあまりいい顔をしない。トイレで新聞を読んでいたりすれば、大目玉を食らう。
 しかしブログを見始めて、自分より相当重症の活字中毒者がたくさん居るのを知って、安心?した。残念ながら、儂よりもっと凄い人達がいるというのは言い訳にならず、全国あるいは全世界の活字中毒者も同罪のようだ。
 ブログを書かかれる人達は、活字中毒とまではいかなくても、読んだり書いたりが好きそうなので、食事中の新聞など許せる?いややっぱり注意を受けていたりするのかな。
 しかし世界は広く、ぎょっと驚く読書家が沢山居るものだ。毎日一冊読む人もいるようで、お仕事は?と聞きたくなる。量も凄いのだが、硬軟、文理何でもござれという人達にも感心する。どういう頭の構造になっているのだろうか?
 そんなわけで、自分の活字中毒は重症ではないとわかったのだが、年のせいか、買ってきても読まず、積ん読本が増えた。これは活字中毒の老化症状らしい。日曜の書評欄で褒めてあるとつい買ってしまう。特にネットで買うのは要注意だ。本屋だと数ページ読んでどうも自分に合わないなと思い留まることが出来る。それに実際、お札を財布から出すとなると抑制が掛かる。
 幸い、どの本は読んだなどと印が付いていないから、連れ合いがあきれるだけで済んでいる。読んでないのが知れたらまたお小言が増えそうだ。
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