駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

平生往生

2008年12月18日 | 小験
 毎年六、七名の患者さんを自宅で看取る。その平均年齢はついに九〇歳を超えた。有体に言えば、臨終はドラマのようではないし大往生というに相応しい別れは半数に満たないと思う。
 死は最も私的なことで、町医者ごときが臨終のあり方にについて何かを言うことは適当でないかもしれない。しかし死に巡り会うことは一般の方には稀なことと思うので、お願いしたいことがある。これは職業上経験したことに基づいているが守秘義務には触れないと思う。
 それは、死は何よりも御本人のものであると云うことと、長く看病された方の気持ちを尊重していただきたいと云うことの二つである。当然のことのようで、そうした配慮に欠ける方が、別れの時と場をかき回されることがある。家族のことに口を出すのは差し出がましいので、黙っているが。
 メメント・モリリと云うが、平生往生なのだ。
 
 
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経済学はどの程度科学か

2008年12月18日 | 小考
 どうも大げさなタイトルを付けたが、正直な気持ちでもあるし、賛同する経済門外漢も多いと思う。科学には予測可能性と再現性が必須だ。臨床医学は科学かと反撃を食らいそうだが、多数を対象にすれば科学なのは容易に証明できる。個別の場合には「かん」が有用だったり、医師にも職人芸的な要素が出てくるが、それでもそこそこ予測や再現性が保たれている。
 経済に関する勉強はしたことがなくマスコミからの情報で物を言うのは、暴挙かも知れないが、経済ほど専門家?の言うことが食い違い、予測が外れる科学はないのではないかと疑っている。もし様々な専門家の言うことがさほど的はずれでないなら、随分と鈍いあるいは茫漠とした科学だなあと言いたい。それともマスコミで色々託宣を並べる人達は本当の専門家ではないのだろうか。
 経過や結果をまことしやかにあるいは成る程と穿った説明が出来ることは科学者の必要条件でも十分条件でもない。朴訥で言葉少なくても、いつも正しい予測が出来れば十分科学者なのだ。なんだかマスコミは実力はさておき、立て板に水の何でもたちどころに説明できる人や自分の考えをどんどん主張する人を愛用しているのではないかと疑いたくなる。政治家も自称経済通が多いのではないか。
 こうした疑問は、経済学というものに対する私の理解不足から生じている可能性もある。経済現象は非常に複雑で、素人が考えるほど簡単には予測できないものなのかもしれない。そうであれば、もう少し控えめに謙虚に解説をしてもよいと思う。いかにも自分が正しいように話し、予測が外れれば直ちにその理由を用意している人物を、医者の場合有能とも優秀とも言わない。中には榊原英資氏のように、素人目にも本物で実力のある人も居るが(異論はあるかもしれない、他にも優れた人がおいでかもしれない)。
 揶揄するばかりでは進歩がないので、経済書を読むほどの時間や根気はないが、眠気誘いに経済の解説書を読もうとしてみるか、ZZZ。
 
コメント (2)
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