駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

クォーターファイナル 

2008年12月02日 | 人生
 準々決勝には手に汗握る白熱の名勝負が多い。しかし題名の意味(語順逆英語)はちょっと違う。数年前から残りは四分の一かと思うようになった。尤も、これは人知の及ばぬこと故、平均+アルファで都合よく行けばの話。両親の享年の相加平均であれば、あと八分の一しかない。いみじくもファイナルには最終の意味もある。果たしてクォーターファイナル以降が実り多き収穫の秋で、薫り高いグレービーソースが用意されているだろうか。
 市民病院の院長は名だたる外科医なのだが、病院診療所の連携の集まりで寝たきり老人が話題なった折、隣に居たのでどんなものかなと顔を伺うと「僕はころっと死にたいな」。と言う。「先生、それじゃあちょっと。僕はさよならが言いたいな」。「いや、いいんだ。子供達も独立しているし」。潔いというか、否、死とはそうしたものかもしれないと思いながら顔を上げると、横顔にもうさよならは言ってあると書いてあった。
 年を取る面白さ楽しさはその年になって初めて分かる、あるいは初めて味わうことができることが実にたくさんあることだ。七十五歳になっても八十五歳になってもそうであるならば、ある程度の長生きも悪くなさそうだ。しかしまあ、ほどほどがよく、オールードパーほど生きても未知の地平は限りなく、同時代人の居ない世界は楽しいとも思えない。それに体力が落ちて自分のことが自分でできなくなってはどうかなと想像する。
 年を取ると同時代を生きる人を近しく感じるようになる。村上春樹を読むと言ったら婿の顔にちらっと軽蔑の表情が浮かんだような気がしたので、最近は情けなくも公言しないのだが、見たことも話したこともない村上春樹さんをよく知っている感じがある。川本三郎、椎名誠、野田知佑・・・も町内会の知人のように感じている。ブラウン管の向こうにもワンウエイだが知人が多い。筑紫さんが居なくなって淋しいが、古館や青山さん、お気に入りの丁野さんなど。
 自分と自分が生きている世界は表裏一体だろう。豊かに生き生きと生きられれば幸甚だが、それは僥倖。来し方が行く末に関わるのは世の常と心得ている。それがいかようなものであろうと、楽しむことができればと思う。
 
 
コメント
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