ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

母胎

2017年08月24日 | ノンジャンル
やっと峠を越え、来週よりは落ち着いた日常となる。

今年の夏も終わったと虚脱した感があったが、
何のことはない、最後の名残か、真夏に戻ったような
寝苦しい夜が続いている。

生まれ出た以上、喜怒哀楽を繰り返しながら人は
生きていく。

いつまで続くかわからない闇から
抜け出した時、あるいは、頂の見えない山道を
ひたすら登り続けて、頂点に達した時、
その喜びと満足は計り知れない。

同時に、その過程にあった奮闘の中のもがき
というものが消えると、何とも言えない虚脱感に
襲われる。

幸せというものは、達した時の喜びの中ではなく、
むしろその、もがきの中にこそあったのではないか
とさえ思える。

さすがに、疲れている。

生物的には、母親の胎内にいる時こそが、
最も安全で、清浄な、いわゆる天国、極楽にある
状態ではなかろうか。

昔、コクーンという映画を観た。
できることなら、母親の胎内に戻って、傷や疲れを
癒す時間を過ごし、また娑婆世界へと戻ってくる
という事ができればと夢想する。

未来には、この復元カプセルのようなものができる
かもしれない。

誰もが確かに、この豊饒で、清浄な世界から生まれ
出てきたことを再確認できるとしたら、人の世も
もう少しまともになるだろう。





法人

2017年08月22日 | ノンジャンル
いかなる団体、組織、社会であろうと、その構成する
ところは、個々の人間である。

つまり人間を離れた組織というものはありえない。。

ところが、この団体や組織を主体とし、人間を蔑ろに
してきたのが現代社会である。

種の保存という意味で、ホモサピエンスは互いに
協力し合う、助け合うという方法を取った。

過酷な自然界において、個々は脆弱でも、
協同による適応能力の開花によって生き延びて
きたのである。

よって、個人のみの幸福というのはありえない。
最も小さな集まりである家族でさえ、一人でも
病気や困難に苦しむ者がいれば、周りは幸福を
感じることはできない。

一般に、会社などの法人は、人間ではない組織に
人間と同じように権利権能を付与したものである。

それでも、その運営は人間によってしか行えない
以上、主体は人間である。

そこを外れてしまうと、主体である人間が
人間でなくなってしまう。

私利私欲では幸福になれない以上、公に尽くすのは
まっとうな人間の生き方ではあるが、公に尽くす
とは、すなわち、人に尽くすのである。

問題は、組織の中枢にいるものが私利私欲に走り、
公に尽くすという大義の元に、組織を利用する
ことである。

人がまっとうでなければ、その組織は当然まともで
なくなり、やがて崩壊する。

組織のため、会社のため、社会のためではなく、
自身を含めた人のためであることを今一度、
確認した方が良い。

私を去って公に尽くすとは、他の人に尽くして
いく事が、自身の幸福にもつながるという事である。

自ら創り出した神や仏の像にお供えを並べるよりも、
お腹を空かせた子供たちに、お腹いっぱい食べさせる
というのが、人間の社会構成の根本なのである。






回復

2017年08月21日 | ノンジャンル
世間一般では、回復というと、全治或いは完治を
イメージすることだろう。

ケガにせよ、病気にせよ、回復というのは、
元の状態に戻ることであり、完治と変わらない。

しかしながら、極端な例を挙げれば、片腕を失った
場合、回復とは腕が元通りになることではない。

身体は元気でも片腕がない障害の不自由さは残る。

我々の言う回復も同じである。
日常の不自由さはないだろうが、いわゆる
コントロール障害というものは残る。

つまり、この病気の回復とは、そのまま断酒の
継続という事になる。

糖尿病など、この病気の2次的なものの治療に
おいても、その要となるのが断酒であることは
自明である。

厄介なのは、片腕を失った場合のようになかなか
あきらめがつけられない点だ。

自身の元の腕を取り戻すことは、不可能であり、
やがてどうしようもない現実として受け入れ
ざるを得ない。

ところが、そういう具体的な障害ではないために、
しばしば陥るのが、もう元の腕を取り戻した
のではないかという、あり得ない錯覚である。

断酒を継続している間は、見た目は普通の
健常者である人がほとんどである。

だが、内なる障害は、一杯のお酒を引き金として
自身を容易に滅ぼしてしまう。
片腕どころか、命までも失うことになるのである。

この病気に限って極論すれば、回復とは、
元気になることでもなく、日常生活を普通に
送れることでもない。

誰に認めてもらう事でもなく、自身で実感する
ことでもない。

お酒を飲むためだけに生きていた自身を、
失った片腕のようにあきらめて、
それを受け入れた上で、断酒をとにもかくにも
継続していく事が、回復なのである。

端的に言えば、回復とは、継続なのであって、
結果ではないのである。





あと一歩

2017年08月20日 | ノンジャンル
この夏、最大の悩みであった課題をクリアした。

まだ峠を越してはいないが、あとはひたすら登って
越えるだけという、気力体力勝負の話なので、
気分的にはずいぶん楽になった。

予定通り、来週末には一区切りを迎え
られるだろう。

結局それで、今年の夏も終わる。
休暇を取って、無為に過ごすよりは
余程いいのだが、暑いを感じただけの夏に
少し寂しい感慨がある。

いや、短い夏の終わりの寂しさではなく、
過ぎゆく時の流れを加速度的に早く感じる
寂しさであろう。

だからこそ、一年のうちに充電時期を
入れる事がむしろ大切だ。

できれば、欧州でたおやかな時の流れを
感じながら、人らしいリズムを
取り戻したいと思う。

久し振りに、秋のヨーロッパ周遊を
計画してみようか。





ラストスパート

2017年08月17日 | ノンジャンル
目まぐるしい夏も、すでに終わりを迎えようと
している。

峠は20日。来週末には、ようやく落ち着く
ことになりそうだが、すでに疲れが出てきている中、
そのピークを迎えるには心もとない。

最後のスパートとは思いつつ、その反動も大きい
ことは自明で、気が乗らない。

いかん、やはり疲れているようだ。

とはいえ、待ったなしの状況というのは、
火事場のくそ力の見せどころでもある。

明日は倒れようと、今日を死に物狂いでという
事も必要な時がある。

自身の可能性など、限界状況に追い詰められ
なければ発現しようもないのである。

またひとつ、何かを開けるかと思えば、
ここは何としても乗り越えなければならない。

これとは真逆なのが、いわゆる断酒である。
断酒には卒業も終わりもない。
数限りない峠はあるだろうが、ラストスパート
なるものはない。

それは、生きることに通じる。
人生の終わりが分かっているなら、
ラストスパートもあり得るかもしれない。

だが、それが分からない以上、日々をひたむきに
生きる以外ないのである。

朝に夕に、先生の言葉が心にしみる。
「日々、坦々と」

平々凡々という意味ではない。
ありのままの自分で、日々できることを精一杯、
悔いのないようにとの言葉である。

また今日も、坦々と生きていく。