ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

洗濯物

2011年05月11日 | ノンジャンル
我が家では、必然的に私が最後の入浴となる。

洗濯は残り湯を使うので、風呂から上がると同時に、
洗濯機を回す。
翌朝、カミサンが洗濯物を干す。

いつも思うのだが、毎日結構な量の洗濯物がある。
殆どが、カミサンと娘の衣類である。

私はと言えば、タオル一枚、ワイシャツ、下着、
靴下ぐらいのもので、一週間分をまとめ洗いしても
事足りる。

事実、しわになるのが嫌で、ワイシャツは
週末にドライクリーニングモードでまとめて洗う。

干すにしろ、たたむにしろ、女性の衣類というのは
面倒くさい。

それでも、家事というのは、きっちりやればやった分、
その成果もハッキリと目に見えるので、気分転換にはなる。

予定のない休日には、自分でも大掃除かと思えるほど
徹底してやるが、それを見越して普段の家事をカミサンが
疎かにしている時には、苦言を呈する。

そろそろ、衣替えのシーズンである。
洗濯物も減るかと思いきや、着替えが頻繁になり、
シーツやカバーの洗濯頻度も上がる。

量的にはあまり変わらないのだろうが、乾きが早いのが
ありがたいし、気持ちがいい。

これから梅雨の季節に向かうが、それを越えれば
気持ちの良い洗濯日和が続くだろう。

心のもやもやをサッパリ洗って、じめじめをカラッと
乾かすような、そんな気分と重なる。

私が、掃除や洗濯が好きな所以である。




できそこない

2011年05月10日 | ノンジャンル
アル中たるもの、三度の飯より酒好きで、
朝から飲んで、仕事などどうでもよく、誰を泣かそうが、
誰に迷惑をかけようが、知った話でなく、
「酒や酒や、酒買うて来い!」と怒鳴っては、春団治気取りで
家族や、世間や、金や、地位や、名誉など歯牙にもかけず、
己の命さえ要らぬ覚悟で飲まねばならない。

仮にそれで死んだとて、それがアル中の本望である。

それが、あろうことか、いざ命が現実に危ないとなると、
途端に命を惜しんで、断酒して生き延びようなんざ、
ちゃんちゃら可笑しい、アル中の風上にも置けないような
できそこないである。

お酒に未練たらたらで、少し身体を治してはまた飲み、
飲んではまた身体を壊しと繰り返すなら、細く長く
飲み続けようということであるから、まあ、アル中の
末席ぐらいには置いてやってもよい。

ということで、アル中の風上にも、末席にも置けない私は、
アル中のなかのできそこないの部類である。

これほどのできそこないである以上、せめてアル中以外の
世界では、少しはまともに生きたいものである。

お酒と共に死ぬこともできなかった中途半端な人間である。
だからこそ、もう中途半端に生きるのもやめにしたい。
自分ですらないまま死ぬのが恐ろしくて、生きることに
したのである。
自分らしく、精一杯で、今を生きていくしかないのである。




不治の病

2011年05月09日 | ノンジャンル
アルコール依存症は、今のところ不治の病とされている。
糖尿病もしかりである。

どちらも、ある条件を満たして、その不治の病との
共存が可能となる。

前者は断酒、後者はカロリー管理である。

無論、「全く飲まない」と、
「食事の内容、量を管理制限する」という条件は異なるが、
いずれも、生き永らえたいのなら必要不可欠な条件である。

何が言いたいかといえば、断酒何年というのも、
カロリー制限の生活を何年というのも変わらない
ということである。

自慢することでもなく、誇ることでもない。

不治の病といえば、余命何年というイメージが付きまとうが、
糖尿病をそのイメージにはあまり結び付けられない。

不治の病とは、手の打ちようがない病気を指し、従って、
余命が大体決まってしまうイメージなのである。

その不治の病を、奇跡的に克服したとなれば、
ドラマにもなるが、打てる手が残されていて、
その手を打てば生き永らえられる病気なら、
たとえ完治はなくとも、ドラマにはならない。

かろうじて、やめられなかったお酒をやめるに至った
経緯に、ドラマがあるのみである。

打つ手があり、その手を打てば生き永らえることが
できるなら、世間はそれを不治の病とは思わない。
そこには、本人の生きるか死ぬかの選択の余地が
あるからである。

世間が思う不治の病とは、どれほど望んでも、
生き永らえる選択肢がない病気を言う。

我々は、生きるか死ぬかの選択ができる以上、
普通の人と何も変わらないのである。

つまり、いずれの選択をしようと、人の嘲りを受ける
ことはあっても、称賛などを受けるようなことではない。

それは、その人の生き様という、全く別の話なのである。




しあわせ

2011年05月07日 | ノンジャンル
いつもおなか一杯でいること。

いつもおなかを空かせていること。

自分がおなか一杯で、周りがおなかを空かせていること。

周りがおなか一杯で、自分がおなかを空かせていること。

限られた食べ物を奪い合うこと。

奪った食べ物を、ひとり食べて、おなか一杯になること。

少しも奪えないで、ひとりおなかを空かせていること。

奪い合いを拒んで、おなかを空かせていることを

後悔すること。

分け合うべきだと言いながら、分け合うことを

惜しんでいること。

どれもこれも、私には不幸に思える。

人間、いつでも少し小腹が空いているくらいが丁度いい。

「腹八分目」とは、よく言ったものである。

それが「しあわせ」というものなのだろう。




笑顔を守る

2011年05月01日 | ノンジャンル
このところ、出張やら休日出勤やらで、なかなか通院が
ままならなかった。

たまに夜診を受けることもあったが、4月に入ってから
ずいぶん間が空いていた。

この土曜日に久し振りに通院したが、
前日も休日出勤だったため、かなり疲れていた。

点滴処置のとき、いつもは椅子に座って受けるのだが、
少し眠りたいと思って、ベッドに横になった。

初診の頃ならともかく、ここ5年以上、ベッドで点滴を
受けたことはない。
ベッドなら空いていると聞いても、椅子が空くのを
待つほどである。

初めから私を知っている看護師さんは
もうひとりしかおられない。
他の看護師さんは皆、ベッドに横たわる私の姿を
見たことがないはずである。

「珍しいわね。」という声が聞こえる。

それより何より、点滴の薬液が血管に入っていく冷たさを
感じながら、スーッと眠りに落ちた。

気がつくと、もうすでに終わっていたが、起き上がって
止血をしていると、なんだか処置室というか、
看護師さんたちの雰囲気がおかしい。

何となく、私をそっとしておこうという雰囲気である。
疲れているようだからという心遣いだったのかと思いながら、
会計を済ませていると、ひとりの快活な看護師さんが
声を掛けてきた。

今日はなぜベッドだったのかと。

どうやら、皆も気になっていて、彼女が探りをいれに
来たらしい。

そうだ、最前線で患者に接する彼女たちは、一番その現実を
知っている。 何年やめていようと、そんなものが
何の保証にもならないこと。 それは突然やってくること。
そして、どれほど心配し、心も手も尽くしても、
裏切られるときはあっさり裏切られることも。

努力が報われないことの方が多い職場である。
それでも、徐々に元気になっていく患者の姿に、
心を支えられることもあるだろう。

だが、再びの飲酒で、またボロボロになって帰ってくる
患者の姿に耐えられず、一般病院へと移っていく人も多い。
激務それ自体よりも、医療側の心のケアが重要な課題で
あることは昔も今も変わらない。

ああ、そういうことなのだと、その看護師さんには、
出張続きと多忙のために疲れ切っていたこと、
今日はやっとの想いで病院へ足を運んだこと、
少し眠りたかったので、ベッドにしたことを伝えた。

大丈夫、心配されているようなことは何もないことを
伝えると、安堵したのか、いつもの笑顔を見せてくれた。

彼女たちの笑顔を守ること。
これも、自身の断酒を支える、大きな力のひとつなのである。
来月、断酒6年の節目を迎える。