ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

頑固一徹

2007年06月20日 | ノンジャンル
とりとめの無い事をふと考えていたのだが、飲んでいた頃と
いうのは、とにかく、どんな時も、どんな場合も飲んでいた。

楽しい時、苦しい時、悲しい時、嬉しい時、暑い時、寒い時、
体調の良い時、風邪で不調な時、とにかく、時と場合を
選ばず、むしろ、飲む時と場合を無理にでも作って
飲んでいた。

我ながら、見上げた根性である。

いつの頃からか、この依存症という病気になってからは、
なおさら、飲む事が生活の基本であって、むしろ飲む為に全ての
生活があった。
病気のせいでそうなったとは言え、命も惜しまずに飲む
その徹底振りには、おかしな話、感心さえさせられる。

例会で、頑固な人ほど、なかなか認めないが、一旦依存症で
ある事を認めたら、その頑固さで、断酒継続がうまく行く
という事を聞いた。
さもありなんと、納得できる話である。

わたしも、あそこまで徹底して飲んだのであるから、これからは、
その見上げた根性で、徹底して飲まない事にしている。
断酒に関しては、一切の妥協を許さない、頑固一徹で
良いと思っている。


底知れぬ根深さ

2007年06月18日 | ノンジャンル
空席も無いほど大勢の出席者を迎え、月例会が開かれた。

父の日ということもあってか、いや、いつも娘が付いて
行くのは、何かいいことがあるに違いないと計算したか、珍しく
息子も付いて来ていた。

今回は、女性の出席者が多く、体験も女性を中心に、多く
語られたのだが、改めて考えさせられる事が多かった。

同じ本人とはいえ、男性、女性において、違いがあることは
明白で、その被害者とも言える家族においても、様々である事は
わかっていたつもりだったが、多くの実体験が、
自分の考えの甘さを改めて痛感させる事となった。

仮に、私の家族において、逆にこの病気となったのが私ではなく、
カミサンだったとしたら、私には到底想像も出来ない事態となって
いた事であろう。
カミサンの病態に悩み、飲み込まれて、何も手につかなくなり、
家族諸共に、壊れていく事になる可能性が大きい。
それにもまして、果たして子供達を守っていけるかどうか、
甚だ自信が無い。

悩みがある時、夜ならさっさと寝てしまい、朝起きて、悩む暇が
あるなら行動するという事を心がけ、子供達にも日頃から
言い聞かせているカミサンがいるからこそ、私自身、何とか
立ち直ってこれたと思う。

「悩んでも、何の得にもならない。とにかく動く。」を
モットーにしている、太陽のような存在であるカミサンが
いればこそ、子供達も大した傷を負わず、私自身も救われたとしか
言いようが無い。

その太陽の存在が、家庭の象徴のような存在が、この病気で
倒れたとしたら。。。
私には想像すら出来ない。
だが、現実には多くの女性の患者の場合、その想像できない経験を
されているわけであり、その結果として、殆んど壊滅的なダメージを
家族に与えてしまっている。

男女の差による、様々な外的な違いは多くあるであろうが、家族に
与える傷の深さは、やはり本人である女性の負った傷以上となる
事が多いようである。

いくら本人が断酒継続をして回復を続けていたとしても、深く
傷つけられた家族の回復は容易ではない。
10年以上継続をされている方が、今現在、最も家族の事で悩み
苦しんでいる事を話された時は、胸が締め付けられるようであった。
本人の回復で全てがうまくいくような、根の浅い病気ではない事に
改めて慄然とした。

自分のしてきた事はすべて自分に返ってくる。
だが、それが自分自身にだけ返ってくる場合は、まだ幸せなの
かもしれない。
親となった自分のしてきた事が、子ども達に投影されて返って来る
という現実は、最も辛く苦しい事である。
私などは、カミサンのおかげで、最悪の不幸を免れたと
いうべきであろう。

いずれにせよ、男性、女性、家族と、それぞれの立場で、この病気が
もたらす不幸はまるで違ってくる。
単に断酒仲間という、一くくりの考え方ではどうしようもない現実が
そこにある。
自身の体験という、一側面だけでこの病気を考えれば、必ず油断や
驕りが生じ、思わぬしっぺ返しを受けるやも知れない。

それほど簡単な、根の浅い病気ではないのである。
この病気の根深さと恐ろしさの認識を新たにするには、
様々な立場の方の、様々な体験を聞かせて頂く他は無いという事を、
改めて考えさせられた。



発散

2007年06月16日 | ノンジャンル
黙ってはいられない、口に出さないと気が済まない人がいる。

私は、どちらかというと、余計な事は喋らない方である。

どちらが良いとか悪いとかの問題ではなく、話す、話さない、
いずれの場合でも、重要なのは、その人において、発散という事が
適度に成され、バランスが取れているかどうかという事である。

口に出して、発散出来ていれば問題ないが、どうも、口に出せば
出すほど、ストレスが余計に溜まっているように見える人が多い。

もちろん、口に出さなければ、その分を溜める事にもなるであろう。

話す、話さない、聞く、聞かないも自由である。
だから、その行為によって生じるストレスの責任は、
自分自身にある。

出来れば、話して発散し、聞いて発散すれば最もスッキリするので
あろうが、話さないで、聞きもしないで、ストレスを溜めるなら、
それはその人自身の問題であり、他人に八つ当たりする事でも無く、
自身で責任を持って処理すべきものなのだ。

話しても、聞いても、ストレスを溜める人もいるだろうが、それとて、
同じ事である。

ということで、明日は月例会である。話す機会があるか無いかは
わからないが、少なくとも、聞く事だけはしっかりとして、
スッキリしたいと思うのである。



回避と直視

2007年06月13日 | ノンジャンル
このところ、飲んでしまったり、飲みそうになっていたりという
夢を幾度か見ている。

汗ばむ季節となってきて、徐々に疲れが出だしてくる時期でも
あろうが、確かに、暑い中散発的に日帰りで出張という機会が
多く、じわじわと効いてきているのかも知れない。

一仕事終えて、帰りの新幹線で疲れと空腹を感じている時など、
周りでビールを飲んでいる人たちを見ると、正直、多少
羨ましくもある。

飲酒欲求が強い時は、なるだけお酒の場に近づかない事、空腹に
ならない事、怒ったり、イライラしない事、暇な時間を
持たない事、睡眠をよく取る事等、スリップ回避の対策を
いろいろと聞かされたが、どれも、つまりは、回避の方法である。

現実は、お酒の場に出なければならない事もあれば、生きている
以上、イライラする事もあり、暇を持て余す事もあれば、
よく眠れない事もままある。

今の自分は、そういう現実の中で、回避から、直視の段階に
早くから入っているような気がしている。

スリップしてしまう時、つまり、魔が差す時というのは、
こういう場合なのだなと思う機会が多いのだが、それを直視し、
その中で、飲もうとは少しも思わない自分をいちいち確認している。

直視すれば、自分はもう飲めないという現実を、嫌が上にも目の前に
突きつけられる。だが、それを至極当然の事として、
受け止めてもいる。

回避できるものは回避するに越した事は無いが、回避できない
場合は、真っ向から直視し、正面切って乗り越えていくしか
ないのである。

これからも、この回避と、直視のバランスを取りながら、
断酒継続の道を、進むほか無いのである。



底流

2007年06月08日 | ノンジャンル
なんだか、このところ不思議な感覚を覚える事があって、それを
自分なりに分析しながら、書き記してみたが、かなり長く
なってしまい、それでもまとまらない。

慨すれば、人間の身勝手さと、傲慢さと、馬鹿さ加減に
嫌気がさす反面、その底流を深く辿れば、生命の大きな、大きな
広がりの中で、全てが繋がって関連しあっていて、一つの雄大な
リズムをつくっている。そこには、執着すべき個体も、自我も、
意識も無く、強いて言えば法則的なものがあるに過ぎない。

その底流はもちろんの事、人間だけでなく、ありとあらゆる生命、
万象を包含し、大律動を繰り返していく。

時にその深層の律動が、無意識をさかのぼり、意識と無意識の
境目あたりにまで達する事があるようで、その瞬間に、自分と
いうものを離れた、不思議な感覚に襲われることがある。

もう、自分の一生の終焉にまで目が届く年になってきた。
残り、まともに事を成すことが出来る時間を30年として、
自分が何を成すべきかを真剣に考えながら、行動すべき時期に
来ているのかもしれない。

出来れば、自分はこの為にこそ、今のこの世に生まれて来たのだと
確信できるもの(天命とでも言おうか)を掴みたいと思うのである。