この病気の人は、傾向として他人が自分をどう見ているか、
どう思っているのかが異常に気になる。
自分を憐れみ、他人を呪い、自身の咎を否定し、自分を
守ろうとする。そのためには常に悲劇のヒロイン、
ヒーローでなければならない。
よって、他人の自分に対する中傷や批判などばかりか、
自分に対する愛情としての忠告さえ否定的に捉えてこれを
容易に受け容れることができない。
これは逆に考えれば、自分の外ばかりに目が向いていて、
少しも自分の内面に目が向いていないということである。
批判には批判で、中傷には中傷で、罵倒には罵倒で反駁する
のみで、自身を正当化することに躍起となる。
病気とはいえ、飲んで周りに対して害を為し、迷惑を
かけてきたことは事実である。
いわば加害者なのだが、本人はお酒の被害者のように
本気で考えている。
自身が周りに与えた害について、酩酊していた頭では
全く覚えていないからである。
人を殺せば、その殺した事実は自分の中に死ぬまで残る。
それはいかに罪を償おうとも消えることはない。
ところが人を殺したことを全く憶えていなければ、
罪の意識はまるでない。
自分がしたことを明白にされたなら、それを認めざるを
得ないが、それでも心の底からその事実を認識している
わけではない。つまり、本当の贖罪ということが
できないのである。
しかして、それでもなお、犯した罪が消えることはない。
被害者の中に癒えない傷として遺るからである。
加害者の会というものはない。あるとすれば、互いの
犯した罪を告白し合い、それをどう反省し、どう償って
いくべきかを考える場でなければならない。
互いの罪を擁護し合い、慰め合うという馬鹿な場であれば、
被害者にとっては許せない場であろう。
さて、自分が何も憶えていないからと、誰にも迷惑を
かけていないつもりなら、その目線はやはり外に向かって
おり、自身の内面には向かっていない。
挙句の果てに、自分が加害者となったのは被害者のせいで
あるとでも言わんばかりの考えを持つ人もいる。
何をかいわんやである。
加害者同士が、互いにその犯した罪の大きさを競い、
あるいはその中で自分はまともである、他は異常であると、
ともに罵倒し合い、中傷し合い、排斥し合うのを、
被害者を含む真にまともな人が見れば、その異常さに
眉をひそめるであろう。
その加害者たちを差別的に異常者と周りが見るのも
至極当然なのである。この当然であることを、加害者は
まず自覚しなければならない。
どれほど人との約束を破り、人の信頼を反故にし、
嘘をつき、騙し、期待を裏切り続けてきたのか。
それを他人が、或いはお酒がそうさせたで済むとでも
思っているのか。
加害者であることには何の変わりもないのである。
罪を償うというのは、まずは自分の内面を観て、
反省することから始めなければ意味がない。
その上で、いかなる罵倒、中傷、批判も一旦受け容れて、
自省の材料とし、得るものは得て、関係ないものであれば
流すということを理性を持って謙虚に積み重ねていかねば
ならない。
何も失ったものを取り戻すことだけが償いではない。
自らが現在、未来に渡って他に与えていくことが
できるようになれば、それも立派な償いである。
失ったと考えるなら、まだまだ自分中心である。
失ったのではなく、他人から奪ってきたのである。
償いとは、取り戻すことではなく、与えることである。
現在、断酒を継続している中においても、こういった
ケースはままある。自身の内省なくして、他を責めるなら、
それは何年継続していようと、回復とは言えない。
現在、飲んでいる中であるなら、それはもう論外である。
酔っ払いの話をまともに聞く人などいない。
まともに聞いていないのに、聞いているふりができるのは、
同じように酔っ払っている人だけである。
そして、二人ともその話しをまるで覚えていない。
笑止千万なのである。
どう思っているのかが異常に気になる。
自分を憐れみ、他人を呪い、自身の咎を否定し、自分を
守ろうとする。そのためには常に悲劇のヒロイン、
ヒーローでなければならない。
よって、他人の自分に対する中傷や批判などばかりか、
自分に対する愛情としての忠告さえ否定的に捉えてこれを
容易に受け容れることができない。
これは逆に考えれば、自分の外ばかりに目が向いていて、
少しも自分の内面に目が向いていないということである。
批判には批判で、中傷には中傷で、罵倒には罵倒で反駁する
のみで、自身を正当化することに躍起となる。
病気とはいえ、飲んで周りに対して害を為し、迷惑を
かけてきたことは事実である。
いわば加害者なのだが、本人はお酒の被害者のように
本気で考えている。
自身が周りに与えた害について、酩酊していた頭では
全く覚えていないからである。
人を殺せば、その殺した事実は自分の中に死ぬまで残る。
それはいかに罪を償おうとも消えることはない。
ところが人を殺したことを全く憶えていなければ、
罪の意識はまるでない。
自分がしたことを明白にされたなら、それを認めざるを
得ないが、それでも心の底からその事実を認識している
わけではない。つまり、本当の贖罪ということが
できないのである。
しかして、それでもなお、犯した罪が消えることはない。
被害者の中に癒えない傷として遺るからである。
加害者の会というものはない。あるとすれば、互いの
犯した罪を告白し合い、それをどう反省し、どう償って
いくべきかを考える場でなければならない。
互いの罪を擁護し合い、慰め合うという馬鹿な場であれば、
被害者にとっては許せない場であろう。
さて、自分が何も憶えていないからと、誰にも迷惑を
かけていないつもりなら、その目線はやはり外に向かって
おり、自身の内面には向かっていない。
挙句の果てに、自分が加害者となったのは被害者のせいで
あるとでも言わんばかりの考えを持つ人もいる。
何をかいわんやである。
加害者同士が、互いにその犯した罪の大きさを競い、
あるいはその中で自分はまともである、他は異常であると、
ともに罵倒し合い、中傷し合い、排斥し合うのを、
被害者を含む真にまともな人が見れば、その異常さに
眉をひそめるであろう。
その加害者たちを差別的に異常者と周りが見るのも
至極当然なのである。この当然であることを、加害者は
まず自覚しなければならない。
どれほど人との約束を破り、人の信頼を反故にし、
嘘をつき、騙し、期待を裏切り続けてきたのか。
それを他人が、或いはお酒がそうさせたで済むとでも
思っているのか。
加害者であることには何の変わりもないのである。
罪を償うというのは、まずは自分の内面を観て、
反省することから始めなければ意味がない。
その上で、いかなる罵倒、中傷、批判も一旦受け容れて、
自省の材料とし、得るものは得て、関係ないものであれば
流すということを理性を持って謙虚に積み重ねていかねば
ならない。
何も失ったものを取り戻すことだけが償いではない。
自らが現在、未来に渡って他に与えていくことが
できるようになれば、それも立派な償いである。
失ったと考えるなら、まだまだ自分中心である。
失ったのではなく、他人から奪ってきたのである。
償いとは、取り戻すことではなく、与えることである。
現在、断酒を継続している中においても、こういった
ケースはままある。自身の内省なくして、他を責めるなら、
それは何年継続していようと、回復とは言えない。
現在、飲んでいる中であるなら、それはもう論外である。
酔っ払いの話をまともに聞く人などいない。
まともに聞いていないのに、聞いているふりができるのは、
同じように酔っ払っている人だけである。
そして、二人ともその話しをまるで覚えていない。
笑止千万なのである。
被害者であっても、ご自分を責める場合が
多々ありますが、加害者は、たとえ死んでも
自分が加害者であることをごまかしてはいけないんです。
その真実から、目を背けているうちは、
回復はあり得ません。
加害者が被害者に対して加害者扱いをするって事は私も散々経験させられてきたからとても理解できました^^
そして私の経験上、加害者の言葉しか聞かない聞けない周り世間というものは ずっと被害者を加害者と思い込んでそういう目で見くるんですよね…(泣)悲しい現実です°・(ノД`)・°・
なのでこの笑止を 沢山の人に読んで貰いたいなぁと思ったよ(o^_^o)v
話せるようになってきます。
憶えていることもあれば、そんなこともあったかと
いうこともあります。
内省というのは時に非常に苦しいのですが、
それをひとつひとつ整理して、しっかりと胸に
納めていかないと、回復の道を進むことはできません。
ひとつひとつ、共々に頑張っていきましょう。
「思いだそうとしている自分」と、
「思いださないようにしている自分」が、
常に自分の中にいるような気がしています。
今はブログを書く時だけ、
「努めて思いだそう」としているのですが、
赤裸々に蘇ったりすると、
指が止まってしまう事もしばしばあります。
「愚かな自分」を振り返る作業も、
ブログのおかげで、もうすぐ丸二年、
おかげさまで毎日続いています。
いつもお付き合いいただいて、ありがとうございます。^^)